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田頭 邦昭展  ―命の風景

2017年12月12日 〜 2017年12月17日

長崎県美術館 県民ギャラリー C室

田頭 邦昭

場所:長崎市出島町2番1号

わたしは爆心地すぐ近くの長崎市平和町(旧山里町)で幼少期より過ごしました。
わたしが生まれたのは戦後5年目ですが、 近くには原爆で破壊された建物(浦上天主堂、長崎医科大校舎・付属病院など)が残っており、 当時舗装されていない道や空き地には原爆の熱線で表面が溶けた瓦が散乱していました。 そのような環境のなかで幼少年期を過ごし、 友達と遊び回っていました。 近くには原爆資料館(旧国際文化会館)があり、原爆の資料や写真に幼いころから接してきました。
私の亡父は三菱造船所の工場内で被爆し、 その当時の凄まじい体験話をなんども聞かされました。
 このような環境で育った私にとってそれは記憶の中の原風景となり、 この歳になっても鮮明によみがえってきます。 高校生の時から絵をこころざし、 美術大学に通う二十歳代から自然とこの原風景をもとに絵を制作するようになりました。
 制作にあたって、 美術大学在籍当初は原爆の廃墟の建物が中心で、 被爆した人々を対象モティーフにすることはできませんでした。 被爆後の生まれで実体験がないので描いても想像に過ぎない、 決して現実を描くとはできないと思っていました。 その思いを変えてくれたのが被爆者で私の従兄でもある丸田和男氏です。
 原爆で母親を亡くし、 自らも負傷し多くの学友を失った丸田氏は、 定年退職後、 公益財団法人長崎平和推進協会会員として原爆の語り部活動や被爆写真の収集分析に力を注いできました。 2006年に国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館がアメリカのラスベガスで原爆写真展を開催したとき、丸田氏も現地に派遣されアメリカ市民に講演を行い、 その時の様子はNHKで全国に放送され、 その後、 NHK長崎放送局で
ドキュメンタリー番組にもなりました。
 その丸田氏に言われました。「 爆心地に近い平和町で育ち、 だれよりも被爆地跡の環境に接した者が描けないはずはない、 ほかにだれが描けるのか」 と後押しされ、その後、 当時の被爆した人々も絵に構成して表現するようになりました。もちろん実体験はないので当時長崎の原爆を撮った写真家 山端庸介氏、 林重男氏などの記録写真を参考にさせていただき、 少しでも現実をイメージできるような表現に心がけました。
 原爆投下地、 長崎の浦上地区は私の大事な故郷です。当然のことながら反核の気持ちは強いですが、 原爆の悲惨な景色は私にとって原風景と
なり、 悲惨で怖いとは思えないのです。 それよりむしろ安らかな景色に変わり、 どこか鎮魂の思いで自然と描くようになりました。 そのような被爆中心地跡の特殊な環境で育った者が絵をこころざし、 記憶の深層から湧き出た光景を描いた “命の風景” をご高覧、 ご批評していただければ幸いです。
 尚、 この書面にて当時の写真家各氏に感謝の意を表します。