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ozawa mayoumi Gallery

小沢 眞弓 アートギャラリー

PROFILE

略歴
1941 東京都中野区に滋・隆子の次女として7月26日に生まれる
1960 東京女学館卒
1964 武蔵野美術大学卒
1965 外科医と結婚、のち離婚
1967-75 新潮社 芸術新潮編集部勤
1975 油絵個展「ガラス壜の世界」展(金子光晴共催 東京みゆき画廊)
   フランス政府招待留学生として渡仏。パリ Ecole Nationale Supérieure des Arts Décoratifs
   (パリ国立高等装飾美術学校)の壁画科3年に編入
1976-81  仏外務省外郭事業 Office Français d’information Culturelle の Comte Turpin de Crissé(テュルパン ドゥクリッセ伯爵)に出会い婚約(事実婚)。
   別荘のある Indre et Loir 県クリッセ村(現・仏で最も美しい村の一つ)にアトリエを持ち転居。
1977 トゥーレンヌ地方の風景画個展(仏・VILLANDRY 城、城主のカルバロ夫妻後援)
1978 トゥール市古書店“La Bouginerie” と限定エスタンプとカード契約販売
1979-82 パリ Galerie MITSUKOSHI にて常設
1979 個展(仏・トゥール市市庁画廊主催)
1980 個展(仏・リシェリウー、MILLY 城)Yves BRAYER に画風の迷いから個人指導を受けてスタイルが固定する。
   トゥール市サロン・ド・シュバレにて La nouvelle république 新聞新人賞受賞
1982 Salon des Artiste Français 会員となり1983年帰国と共に退会
1982-83 パリ Galerie Naifs et Primitifs 常設展及びグループ展
1982-84 Bilan de l’Art Comtemporain-Art Expo 招待出品(ニューヨーク、サンフランシスコ、ダラス、東京)黒猫パステル画シリーズ
1983 帰国
1983-85 個展(東京銀座・大阪フォルム画廊)
1985 麹町聖イグナチオ教会にて受洗・洗礼名アウグスチナ
1986 1988 1990 1992 個展(東京銀座 東京セントラル絵画館・彩壺堂)
1992 まゆみを眞弓に改名
1993 小野和彦と麹町聖イグナチオ教会にてカトリック結婚
1996 仏・トゥール市役所へフランスでの著作権寄贈
1996 1999 2003 個展(東京渋谷・東急百貨店本店)
2003 個展(ウェルサンピア佐久主催・佐久市立近代美術館協賛)
2007 2012 個展(東京渋谷・東急百貨店本店)
2009 クリッセ村建造物デッサンシリーズがクリッセ村各名所8か所にパネルにして固定される
2010 個展(柏市・コーマルサロン美術館)日仏サロン文化協会主催
2013 6月20日付、クリッセ シュール マンス村名誉村民に決定される
   - クリッセ村を愛する MAYOUMI が永遠に私たちと共に住民でいられるように –
2015 クリッセ村申し出により、仏での著作権をクリッセ村に変更
   クリッセ村へ版画手彩色、版画原画すべて、油絵他資料を寄贈
2016 個展(仏クリッセ村役場にて クリッセ村主催)
   ドイツ ベルリン Beroiner Liste 国際アートフェア展 JAG より招待出品
   日仏サロン文化協会(柏市)コーマルアカデミーより国際文化活動に対し勲章授与
2021 個展(東京渋谷・東急百貨店本店)
 
 
青少年カメラ教育にこだわった父、小沢滋 1907~1990年
フランスは歴史ある国柄、家族やルーツを知りたがる。背景、環境と遺伝が人物を浮き彫りに するから。ここに、ユニークな裏方で終わった父、小沢滋を記録に残したい。 父は無口で、文化レベルが高く個性的な変人だった。欧米文化を取り入れ、未来を読む明治生まれのハイカラさんだった。
父の母は明治の大地主の娘。富士山麓から田子の浦までの田地を所有した、通称、美濃屋という小澤家の人。当時は稀にも渡米した父の伯父と叔父がいた影響で、洋風好みの一族だった。画家もいた。
父は法政大学法学部文学科卒業後、陸軍お抱えの学者となった。陸軍糧株省依頼で「日本兵食史」 編纂の筆者になったのが27歳。「日本兵食史論」「日本食物史」等の著書も残した。文部省の社会 教育局で、月刊誌「青年と教育」創刊。大日本青少年団本部に招かれ「青年」等の軍国雑誌創刊。 時は戦争モード一色。よって敗戦後、GHQ より戦犯 G 項該当で、公職追放になった。高齢になり 「大日本青少年団」編纂も執筆している。
戦争で疎開から無事東京に戻ったものの、家は爆撃され、職も失った我々一家は、惨めな住居 生活が続いた。だが、家庭愛があった。娯楽は両親が語る戦前の夢のような暮らし。
1956年、父は少年にカメラを持つ喜びを教育の一端として始めた。滋は若い頃、非常に珍しいカメラを母親に買ってもらった喜びが忘れられず、カメラの面白さを若人に教えることで犯罪も 遠ざけると信じた。当時カメラは、まだ高嶺の花。
日本カメラ教育協会と名付けて「カメラスクール」という雑誌も出版。各カメラやフィルム会社、新聞社、デパートが協賛で、本州を中心に小中学校課外授業規模でカメラ教育や大会を開催。 カメラ教室や大会には、高級カメラとフィルムを無料で貸し出された。「今日も無事に全カメラが 戻った。カメラをする子に悪い子はいない」が父の口癖だった。事実上、日本の NPO の元祖だ。人々 は「宣伝だろ」と言っていた。各カメラ会社も宣伝のつもりだった。理想に輝く父だが、我が家の 台所は厳しいものだった。
父の要請もあり、当時小さな会社だった富士写真フィルムは、子供向けの安価で簡単なカメラ、フジペットを誕生させた。これが大衆カメラの発端に!「小沢さん、社員になってくれたらやり やすいんだがなー」と富士フィルム。「カメラ教育協会は宣伝じゃない。あんたら金儲けの考えは よしなさい」と父。結局、父はダメ男の烙印。お互い様だ。世間は出世、金儲け、エログロの時代。 しかし、父の理想に終始寄り添ってくれたのは、今は世界の富士写真フィルムであった。 「戦前まで苦労なしできた母が、ストイックな頑張りを見せた。愛は娘2人に向けられた。母の 実家も戦争で焼失したものの、庭の片隅に家を建てさせてもらい、なんとか世間体が整ったのが 戦後 12、3年後。我慢から来る母の虚栄や、理想と現実の間で、私は長期にわたり、対人恐怖症 を患う。次に相方の親同士の対立から離婚という人生の躓きがあった。両親は欧米の輝く女性を 目標に独立を促した。私は人生の荒波と闘い、私なりに谷底から這い上がる。経済力も持ち、達成感が強い自信になった。人の世の情も知り、海も渡って逞しい女性へと。そこには数奇な運勢 が待っていた。
父の資料は日本カメラ財団、ライブラリーに幸いにも 収められている。
仏・Crissay-sur-Manse村 名誉村民 小沢眞弓
父、小沢滋
(セルフタイマーによる撮影、27、8歳頃)

INFORMATION

作品カタログ 

 
 

 
 

  

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個展

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