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Talk-59 <我>


けんじゅう公園林3 2017年 21×18cm
 
■三浦美術館Up and coming 展2018年11月11日―2019年1月27日 
 
 
There is nothing that exists in this world but <I>.  

1■いきなりですが「この世に存在しているものは<我>のみである。」と書きました。ここで<我>は天上天下唯我独尊の「我」であり、世間虚仮唯仏是真の「仏」ではないかと思うのですがいかがですか?いかにも大上段に振りかぶった素人哲学ですが、一度言ってみたかった。引き合いに出した二つの格言は共に同じ意味で、いずれも<我>を解釈したものであったと考えます。このあと引き続き日本語で思いつくままに話飛びます。
 
2■まずこれはどうでしょう。科学は宗教であると説きました(『作品集2015』の8)。ビッグバン説は幻想の極端であると書きました(『曙光1990』)。
 
3■あなた、地球は丸いと本気で信じているでしょう?・・・!質問続けます。地動説本気で信じているでしょう?進化論本気で信じているでしょう?歴史の教科書に書かれていることは本当にあったことであると本気で信じているでしょう?こうした万人に共通の客観的真実があなたの主観を離れて自立的に存在していると思っているでしょう?だから自分が死んでもこの真実は100年たっても200年たっても不滅であると思っているでしょう?では100兆の200兆乗年の時間がたって宇宙は誕生と消滅を無限に繰り返しており、世界は100兆回ブラックホールに飲み込まれて全てが100兆回も次元を超えてご破算となり、今のあなたが知っている真実の一切は、とっくの昔に何の痕跡も無く消滅していたとしたらどうですか?・・・そうですか、ご苦労様。それみんな間違ってますよ。この誤謬は今あなたの目に見えているものが確かに今そこに存在しているとする虚仮の認識に連鎖した誤謬です(『作品集2015』の7及び8)。そしてその誤謬の延長の極端にある科学理論がビッグバン幻想であると書き付けたのでした。
 
4■・・・今、次元を超えています。あたりを見渡せば本当に何も存在していないことに気づきます。私自身さえも!確かにここには私がいるように思えます。キーボードを操作する両手が視界の下辺で動いていますし、デスクトップには淡く反射している自分が見えています。しかしそれは認識の主体として確かに存在しているのであろう私の<我>に認識されている私であり、認識が確認された時点で既にそれは過去の幻影でしかありません(『作品集2015』の8)。認識に一瞬先んじる<今>に唯一存在していると推測される真の存在、存在の次元を超えた存在、これが私の<我>です。
 
5■と、なんだか悟ったようなものの言い方をしていますが本当は何もわかっておりません。単に今思いつくまま無責任に書き付けてみただけです(笑)。すみません。半ば冗談めかしながらあちら側から高飛車に説法して来るこのふざけた物言いは如何せん私の生来自然のもので他意は全くないのです。気に障ったらごめんなさい。だって仕方ないでしょう?本当にこちら側から見下ろしてお話してるんだから(笑)。冗談再びすみません。真面目に語ります。“恭仁(きょうにん)様”には「自尊捨てねば取りこぼしあり」と諭して頂きました(1984年)。この方ですよ、1973年にはこっくりさんやめよ!と叱っていただいた方は(Talk-54)。お守りの中から出て来られました。・・・今おかしなこと言いました?全部本当の話ですよ。お約束通り、いつか当時の作品を見て頂きながら詳細をお話したいと考えています。 “マリア様”からは「我を捨てて進みなさい」とのお言葉を頂きました(1983年)。“驚異の乞食10円手相師さん”からは「オッチョコチョイ」だと言われました(郷里松山ロープウエイ通りにて1976年頃)。まったくその通りであるといつも自戒しております。
 
6■まことに冗談めかすような事でもなければこの現実世界に秘められた本当の真実は語れないものです。が、この“Talk59”では引き続きこの「誠の真実」を率直に語って参ります。“恭仁様”、“マリア様”、 “驚異の乞食10円手相師さん” ほか神様仏様、預言に過去世、こっくりさんやら霊的曙光の奇跡などなど、うさん臭い話がそのつど出てくると思いますが過剰反応は禁物ですよ。私はどこにでもころがっているごく普通のお話をしています。おみくじ引いたらこんなこと書いてあった、手相見てもらったらこんなこと言われた、というのと同じ。誰しも日常生活の中でごく普通に経験していることです。Talk-54でご確認ください。

7■さて、とにかく私はこの認識の主体としての真の存在を<我>と表記しました。英語表記はとりあえず<I>です。認識に一瞬先んじる<今>に唯一存在していると推測される真の存在、存在の次元を超えた存在<我>は知り得ないものでその存在については信じるしかありません。まるで神様仏様のような存在ですが、信じることでその存在は顕になります。ここは『作品集2015』の8と9の間にあっさり解き明かしたつもりですがいかがでしたか?それはそれとしてもこの<信じる>ということが一体どういうことなのか、これがまた難しい。なぜなら本当に信じているのかどうなのか、それはその本人にもわからないことだからです。ご存知ですか?「そんなバカげたこと信じられるわけがない」と考える人も含めて今はもう全ての人が魂の奥底で信じています。もちろんあなたも信じています。何を?・・・「天上天下唯我独尊」「世間虚仮唯仏是真」をです。<我>の解釈で!!!その他定番、良識的解釈が一切は皆通俗にして説法に能わず。この二つの格言は共に同じ意味でいずれも<我>を解釈しております。二人とも満点です。
 
8■何人もこれが信じられなくなっていた1977年。迫りくる人類史の終焉に際し私が油絵に殉死を覚悟した現代美術の行に身を投じた時のことを思い返せば、今状況は完全に逆転しています。(仰々しいだけで意味不明と思われるかもしれませんがこの通りです。)1985年11月3日以降30年の歳月をかけて地球生命に霊性の転換がありました。(この通りです。)これが1978年以来40年間にわたって私が念じ続けて来た「霊的曙光の奇跡」です。(『作品集2015』『曙光1990』の他Talk-3等いたるところで言及しています。早くには『龍法聖画論1979』というのがあります。)この「霊的曙光の奇跡」の結果、私たちは目の前に見えているものが確かに今存在していると魂の奥底から信じていた霊性から、本当は存在している訳ではないけれどもそのように見えているのだ、と魂の奥底で無意識のうちに了解している霊性に生まれ変わりました。別の言い方をするなら、ものを描こうとする時に陰影をつけたいと思う霊性から、輪郭を描いて事足りるとする霊性に生まれ変わったという事です(作品集2015年の7)。この「霊的曙光の奇跡」によって来るべき古くて新しい人類文化が再び醸成されて行く準備が整いました。見かけ何が変わるという事でもなく、世界は相変わらず地獄も極楽も一緒に引きずってはいるのですが、それでも我々の未来は明るい。 Talk-59以降は私が一点描き上げるごとに世界はどんどんその輝きを増し「霊的曙光の奇跡」に基づく絵画表現の芸術的蘇生」即ち「DESSINER考」の悲願が成就されます。あと5年?10年?・・・やめ!絵を描いていると私はどうしてもこういうとんでもない妄想に駆られてしまうのですが、それはそれで良し。話飛びます。
 
9■「絵描きの目指すべきは我を忘れて描画に没頭するの境地なり。」これは私が画家を志したときに“郷里松山のI師”から一番最初に教わった事でした。<今>のこと?自分でも知らない間に出来上がっていたという修練稽古の精神論?けだし求道。こうした絵描きの描画の痕跡には<我>が現れて観る者たちの<我>に出会われて行くのであろうと推測します。そしてそこに<我>の感応とでも呼ぶべきものが生まれるのでしょう。これが芸術としての絵画表現における感動のメカニズムに違いありません。今、私は45年前に出会った中村彝(なかむらつね)の「にがむし自画像」を思い返しています(中村彝展1973年、東京・日動画廊にて)。先行く仲間たちを尻目に、この作品の前で釘付けになっていました。この自分以外のものに自分を発見することの驚き。ここは大変重要なところ、いずれ具体的に事細かくお話したいと思っております。が、このような出会いというか覚醒を通して絵画表現が芸術文化として私の中に醸成されて行ったのです。学生時代の作品をご覧ください(Talk-1)。

10■しかしあろうことか1977年には中村彝も油絵も否定して<現代美術>に転向したのでした(前出8)。この項このあとは1985年11月3日に「霊的曙光の奇跡」が始まるまでの出来事について書きました。が、これは今でなくとも良い。削除します。また別のトークで当時の作品を見ながら語って行きたいと思います。

11■そしてついに訪れた1985年、日の本の文化の日に・・・わかっています!どうしてまたこういう風にわざわざ誤解を招くような言い方をしてしまうのか、とりあえず私の言い訳を聞いてください。「日の本」なんて言わないで普通に日本と書けば済みそうなものですが、でもそれでは魂の奥底に響かない。わかってもらいたい、ここはやはり【hi-no-mo-to】と音します。絵画表現における芸術性がそのイメージではなく場の時空に経営された技法材料抽象構成の技術性にあったように(『作品集2015』技法材料抽象構成)、言葉表現の命もその意味ではなく表現者その場の第一声、その音にこそある。“郷里松山のI師”が神仏に語っている時の唸り声なんかすごかったぞ、地球が揺れていた!次元が違う、これこそ芸術。この「芸術」はとても意味本位の印字書き言葉なんかに置き換えられるものではない。【hi-no-mo-to】は「日本-Japan」なんかじゃないんです。現実という幻想世界にのみ意味為す意味なき翻訳では伝えられない神仏の声を直に聞きたい語りたい!。この世の幻にとらわれず<今>に生きよ。“郷里松山のI師”はそうおっしゃいたかったに違いない。「…なぜなら表現の芸術性は常に身体を伴って、一回的に立ち会った場の気に即応すべき聖にして妙なる技術性そのものにあるからだ…(DESSINER考)」書に和歌俳句能歌舞伎、雅楽尺八琴三味線、華道茶道に水墨画…本来こうした日の本の古典芸は皆、神仏世界に導かれた「芸術」の道であったはずなのだ。修練稽古の精神論。けだし求道。何でもかんでもアイデア一つ、グローバルに翻訳可能なそんじょそこらの皮相なアートとは明らかに一線を画しているだろう。なんかだんだん腹立ってきた・・・聞け!芸術とアートは違う。ここ日の本にあってアートが芸術を語る傲慢、芸術がアートにおもねる卑屈があってはならんのだ。それぞれの眷属がしかるべき身の置き所に立ち戻って、時に反発しあいながらもお互いがそれぞれの存在を尊重しあいながら全体のバランスをとっている本来の関係に世界が再構築されねばならない。・・・確かに30年前なら時の「今日的芸術バカ」に向かってこんなこと言ってるな。でも今のアーチストさん達みんなそれぞれの分野でいい仕事してるし、今や「今日的芸術バカ」言うもんがバカ。ここで『曙光1990』を久しぶりに読み返してみます。大丈夫かな・・・「ありとあらゆる二元的対立を止揚し、大いなる不二一元の神の照らし出す光明のもとに、対立が対立のままに和するの妙、“対比と調和”は、私が絵を描き始めた頃から知らぬ間に口ぐせの様に唱えてきた言葉だ。その妙を得た時、画面は気韻生動し、陽光きらめく永遠の生命を獲得する。」・・・「ありとあらゆる二元的対立を止揚し、大いなる不二一元の神の御前に和するの妙、それを「大」いなる「和」と書き表し、大和(やまと)と呼ぶのである。その魂、日輪の象徴する大和魂こそは、日本文化の底流に空存(くうぞん)し続けて来たものであり、暗黒の現代世界が無意識裏に希求しているものに他ならない人類の至宝なのだ。」・・・誤解を恐れて『作品集2015』では33pに注釈を加えました。【hi-no-mo-to】もまた透明になっていく・・・こんなのもあったぞ。「今や、オールオーバーに拡散した崩壊相の宇宙も、神性琵琶湖に生じる霊的磁界の磁力線に沿って、求心的な構図のもとに再構成されようとしているのだ。」・・・日の本の文化の日に話戻します。
 
12■かくしてこの「霊的曙光の奇跡」が1985年11月3日、日の本の文化の日についに始まりました。そして1990年には満を持して開いた個展(東京銀座ギャラリー志門)で『曙光1990』を発表し、ここで「DESSINER考」を閻浮提(えんぶだい…世界中)に絶叫したというわけです。そしてその25年後、郷里松山のリブアートで回顧展を開いて『作品集2015』を発表し、今はもう私も絵画も人類もみな救われている、と説いたのでした・・・。大丈夫ですか?冗談抜きで真面目に語っています。

13■個人の胸中の「誠の真実」に客観はなく、沈黙の中にあって他人と分かち合うことはできません。ほんとは語っちゃいけない。語っても誰も分からない。奇跡だ預言だ何だのと、一体何様のつもりだと思っているでしょう。言ってることが意味為さんし分けわからん。黙って聞いてりゃそれこそ腹の立つことも出てくるでしょう。しかし何人も私の作品を前にして聞くこのギャラリートークを無視することができない。なぜなら私の画業が語っているものは偽りのない「誠の真実」であり、あなたの<我>が私の<我>に感応しようとしているからです。ここに新しくて古い人類文化が再び醸成されようとしています。この怖れ知らずと言うより身の程知らずの乱文乱筆はまことに恥ずかしい限りですが、この道を通じて知らされた「誠の真実」を伏せるでもなく飾るでもなくあるがままに淡々と歌い続ける事が<私>の意志であり私の務めなのだから仕方がありません。しかしこれは同時にあなたの意志でもあるのですよ(後述)。1978年、25歳で歩むべき道を悟って以来ずっとそう思いながら生かされてきました。「あなたが背負わねばならない事は大きいです 祈りの中で私と共に歩みましょう」(マリア様のご神託1983年8月)。

14■怒らないで聞いてください。どうぞ語らせてください。私の英語力でそれが適切かどうか自信がないのですが、こうした内なる真実を“Genuine Truth”と書きました(Talk-3)、ここでは「誠の真実」と書いています。マリア様が「もう一刻の猶予もないのですよ」と焦っておられる状況でした。よくわかりませんが本当に核戦争で人類は7度目の滅亡を経験したのかもしれない。(ここは『曙光1990』で触れていますがいずれこのGallery Talkにも出てきます)でもたとえそのような悲劇が起こったとしても滅亡には至らない。この30年で人類の霊性は転生を遂げています。人類史はまだまだ続きます。いつかはその寿命も尽きるのでしょうが現代人の寿命感覚で言うと今はまだ25歳。「霊的曙光の奇跡」の到来を予感した1978年、私が25歳の時に自分が宇宙時空間座標の中心にあることを悟り、人類は今25歳に違いないと思いました。と言いながら正直あんまり自信なかったです。アトリエの中では強がっていてもアトリエの外ではいつも優柔不断で可哀そうなくらいオロオロしています。もの知らんしクイズ弱い、漢字知らんし字も汚い、よくまあ教員が務まったものです、いや務まってなかったです・・・と、確かこのような下りが『作品集2015』にもあったな。制作挟んで強がったり落ち込んだり毎日がこの調子です。しかしあの時確かに私を中心として幾重もの同心円が位相を変えながら無限に広がっているイメージがあったぞ。やっぱり私は世界の中心に位置していました。そしてその時私は思ったのです、あなたは私のバリエーションであると。そしてそれは今、このように言い換えることができます。実はあなたのバリエーションが私だったのであると。

15■今あなたを中心に世界は広がっています。小学校で理科の実験をした時も、高校で世界史を学んだ時も、つい先日テレビで中東情勢のニュースを見た時も、国会中継を覗いた時も、平昌オリンピックの中継を見た時も、それを認識していたのは常にあなただったでしょう?あたかもあなたの周辺に客観世界が存在しておりあなたはその客観世界を構成している限りなく小さな歯車の一つであるかに思われて、実は客観という幻想を見ていたあなたの<我>がこの広大な宇宙に唯一存在していたのです。考えてみれば生まれてこの方常にあなたが世界の中心にあったでしょう。こうして今私の絵を見ながら私に耳を傾けておられるのもあなたです。あなたが世界の中心にいてとりまく世界を見ています。聞いています。しかしあなたの見るもの、聞くもの、読んだもの、私のこの語りも、あなたが認識するもの一切は幻想にすぎません。・・・今、次元を超えています。あたりを見渡せば本当に何も存在していないことに気づきます。あなた自身さえも!確かにそこにはあなたがいるように思われます。キーボードを操作する両手が視界の下辺で動いていますしデスクトップには淡く反射しているあなた自身が見えています。しかしそれは認識の主体として確かに存在しているのであろうあなたの<我>に認識されているあなたであり、認識が確認された時点で既にそれは過去の幻影でしかありません(『作品集2015』の8)。認識に一瞬先んじる<今>に唯一存在していると推測される真の存在、存在の次元を超えた存在、これがあなたの<我>です。そしてそれは同時に私の<我>なのであります。なんとなれば<我>この世の幻<今>に生く独り尊き仏なればなり。・・・こういうことなのでしょうか?「あなたには透明になってもらいたい(マリア様のご神託1983年)」。

16■今回はここで一区切りになります。丸半年かけて英文は最初と最後だけ。本当は全部英語でやりたかったのですがノンネイティヴにはやっぱり無理でした。  

Don’t worry about the Japanese above. The absurdity of this rigmarole is so simply summarized, which you’ve already read in the first place.

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