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Talk-45 教科研究報告3 ー退職記念回顧展秘話ー

『教科研究報告3』は、私が埼玉県の県立高等学校美術家教諭を定年で退職するにあたり、最後の勤務日となった2014年3月20日に当時の勤務先であった和光国際高等学校の職員朝会で発表したものです。
 
 
 
和国※を最後に定年で退職するにあたって、この作品とこれに続く一連の「神の絵馬」だけは、何としても皆さんに見ておいてもらいたかったのです。そんな思いで昨年末、体育館通路の展示スペースで回顧展を開かせて頂きました。(※和国は埼玉県立和光国際高等学校の通称)


善光寺如来御書箱を開けて驚く黒い手の女神 1985年11月3日 117×74cm oil on panel 
 
 
賛■救世観音(聖徳太子)によって導かれた自画像。始めは何を描くでもなく、ただ、その場を取り巻いていた気のリズムにのって筆を走らせた。しばらくして全面に霊気がしっとりと立ち込めてきた頃、おぼろげに移ろふ人影を見つけ、構図の決まったところでそれを画面に定着させた。この日一方では、色鮮やかな蜀江錦(しょっこうにしき―古代中国の蜀で織られた布地)でまわりを張り固められ、中に太子ゆかりの文書が秘められているという開けずの箱が、法隆寺の北倉から発見されている。封じ込まれたまま一千三百年。誰一人として中を見た者はいない。なおも同寺の“掟”に守られ、覗かれることを頑なに拒み続ける・・・。外側を更に四重の箱と七種の裂(きれ)や袋によって、執拗にも厳重に包まれていた、このミステリアスな開けずの小箱…善光寺如来御書箱(ぜんこうじにょらいのおんしょばこ)という。この国宝級の大発見は、翌日の朝刊第一面トップに大きく報道されたが、それを見て、このロマンチックに妖しげなタイトルが閃いた。「黒い手の女神」はさしずめ私自身に違いない。「わが身を写すなる宝」鏡を見て描いたのだから…。あのフェノロサは救世観音を開扉した。私はこの御書箱を開けてみたい。―スペイン美術賞展1986年―
 
 
この自賛は1987年のものですが、これだけではちょっと分かりにくいと思います。そこで今回はここにもっと丁寧で平明な注釈を加えたいと思いました。そして紙上ではありますが、改めて、この絵を始めとした同時期の作品や作文(「DESSINER考‐1990年」「技法材料抽象構成‐2000年」)を、皆さんにもう一度見直して頂ければと思ったのです。ただ、いくら易しい説明ができたとしても、むしろそれ故に却って理解し難いものになるかもしれません。が、リラックスして時に雑談なども交えながら、できるだけ分かりやすく書き進めて参りますのでご参考ください。
 
 
 
1■当時の私には救世観音(聖徳太子)の気が強くかかっておりました。いや、そのように信じています。というかこれは紛れもない事実です。・・・いきなり躓きました。一体どう説明すれば良いのでしょうか。語り切れぬもどかしさがあります。が、とにかく続けます。
 
 
 
2■「わが身を写すなる宝」これは“かがみより他にわが身を写すなる宝はあらず道に目覚めて”という義淵(ぎえん)の句からの引用です。ここも説明の難しいところですが、事実をあるがままに書きとめます。1984年8月6日8:00pm-7日2:00am、宗教家H氏との対談中に私の潜在意識の奥底から立ち現れた義淵と名乗る私の過去が [ さ・か・も・と・た・つ・ひ・こ ] という今生の私の姓名に因んで8つの句を読み上げていきました。この句はそのうちの [ か ] の句です。嘘か真か全てH氏が聞いて書き留めました。句は句と言うほどのものでもなく、古文調でその雰囲気を伝えようとはしていますが、真正の古文にはなっていないと思います。眉唾ものですが、この句には当時の私にもH氏にも知り得ない未来の事実が述べられていました。また本稿冒頭のご挨拶にある「神の絵馬」の引用は [ た ] の句 “たからかに心の様を語り来て語れぬ神の絵馬を悟れり”に由来しています。
 
 
 
3■当時、私は義淵という人物(私の過去?)を知らなかったのですが、なんとコンサイス人名辞典に出ていました。(日本史弱い!3学年1学期末考査12点は下から2番目。最下位7点の強者はその後間もなく自ら中退して行ったので、私が繰り下がって1番になった。1972年7月)
 
ぎえん 義 淵   ?~728(?~神亀5)奈良時代の僧。名俗姓は「続日本紀」に市往いちき氏、「扶桑略記」に大和国高市郡人、阿刀氏という。699(文武3)学業を賞され、稲1万束が与えられた。703(大宝3)僧正に任ぜられる。「扶桑略記」によるとこの時、龍蓋寺を造る。また同書はその伝を記し、父母が観音に祈って生まれ、それを聞いた天智天皇が、皇子とともに岡本宮で養育したという。また「続日本紀」には727(神亀4)先代からのおこないを賞され、俗姓市往氏を改め、岡連姓を与えられ、兄弟に伝えることを許されたとする。「三国仏法伝通縁起」(中)によれば、弟子に玄肪・行基・隆尊・良弁らがおり、道慈も義淵に法を学んだという。
 
(コンサイス人名事典)
 
 
 
4■注意!上の肖像は義淵とは関係ありません。1978年の私の自画像ですwww(^_^)/ ここだけの話、実は10年前にもこの手のいたずらをやらかしました。H15年度の修学旅行は島根の民泊で神楽(かぐら)見学があったのですが、修学旅行の文集には、神楽を見た後あたかも私が自分で作った歌であるかの様に、この義淵の8つの句を載せています。これってやっぱり盗作になるんでしょうかね?いずれにせよ島根民泊の神楽とは全く無関係でした。ごめんなさい。タイトルは「神楽の御世に我が身照らさる」だったと思います。このタイトルだけは私が自分で付けました。
 
 
 
5■話が横道にそれますが暴露ついでにここだけの話第二弾(^_^)/ なんだか話が無茶苦茶になりそう・・・。実は13年前にもありました。教科研究報告2の「技法材料抽象構成」に「だれの言葉だったか良く思い出せませんが、 “輪郭線に神ぞ宿れる。” なんとなくわかる気がします。」 とありますが、これは自分の言葉でした(^o^)/すみません。とたんに嘘臭くなりましたか?でも私としては、なかなかに真実味があると思っていて結構気に入っているのです。私が知らないだけで本当にこんな言葉があってもおかしくはない。形質?形相?神がどうのこうのとか―。古代ギリシャ風哲学詩人を気取ってみました。(世界史弱い!3学年進級をかけて追認のレポートを書かされた。選んだテーマは「宗教改革」1972年3月)
 
 
 
6■今日のグローバルな人類文化を歴史的に遡及してみると古代ギリシャが見えてきます。絵画表現も、それまでの単純な線画に陰影が施されるようになったという点において、西洋近代絵画のひな形をここに見ることが出来ます。この陰影に着目した画法の特質である再現的リアリズムは、ルネサンスから近代にかけて、科学的な裏付けの下に飛躍的な発展を遂げ、印象派に至っています。最終的にこれは物に反射する光の相対量の変化を捉えて、見えるものを見える通り、客観的に再現するという画法に成長したわけですが、しかしこれは写真の原理であって、絵画芸術が本来目指すべき所のものではありませんでした。西洋絵画における画法の完成は同時に写真機の登場と重なり、その後は道を映像テクノロジーに明け渡すことになります。西洋絵画芸術の終焉です。が、今それはさておき、ここで古代ギリシャの画家たちは、その当時まだプリミティブなものであったとはいえ科学的な眼差しによって世界を捉え始め、再現的なリアリズムを求めてそれまでの線画に陰影を施すようになっているわけですが、私はここに、映像テクノロジーはもとより、総じて現代科学がその根底を支える、今日のグローバルな人類文化全般の起源を見て取るのです。
 
 
 
7■かくして古代ギリシャ以来、地球生命の歴史は、見えるものは本当にそこに存るものであると、魂の奥底から信じ切っている霊性によって発展して来ました。ちょっと待て!見えるものは本当にそこに在るものなのだから信じるも信じないもないだろう。それに何だ、その<地球生命>とか<霊性>とかいった戯言は、と思われるでしょうが、これは仕方がない。今私は「語れぬ神の絵馬」を敢て語ろうとしています。このまま続けます。ものを描く時、陰影をつけたいと思ったこの現実的で科学的な霊性は古代ギリシャに現れ、その後世界中に広がって行きました。この霊性が支える文化が発展過程にあったここ二千数百年の間、それはそれで良かったのですが、「成長と多様化の飽和状態にあり自己崩壊寸前の現代文化」(教科研究報告1983年)に至った今日、私が問題にしたのは、基本的にこの霊性のままではもはや人類文化に未来はない、という事だったのです。温故知新とは言いますが、そこに物が在ると思ってしまった過ちに起因する今日の問題、つまり<科学という宗教>(後述)に洗脳されてしまった現代人の不幸は、もはやルネサンス的回帰によって救われるものではありません。先に見たように西洋文化史の文脈において、科学をその礎に持った絵画芸術はすでに破綻し、崩壊しているのです。音楽や宗教もまた――。ところで、至極当然であると思われるこの人間的な霊性に対して、ものを描くのに輪郭線だけで事足りるとする霊性がありました。この霊性は、現実に対する執着が希薄で再現的リアリズムの発想がありません。そもそも、ものを見てもそこに物が在るとは思っていないのです。そしてその命のベクトルは極東より閻浮提えんぶだいに向っています。(日本から世界中に広がるという意味です)即ち「西の文化がこの描画行為に負わせてきた再現的観念性の原罪も原罪即仏果と見つけたればその神業が絵画表現の芸術的蘇生を極東より閻浮提に問い返す」(DESSINER考‐1990年 「技法材料抽象構成」‐2000年にも掲載)・・・これからの人類文化に求められているのはこの霊性なのです。霊性が転換されることによって、現代人の不幸の元凶となってしまった科学も、この先は方便として生かされる本来の道が開けて来ます。(★極めて重要★結論です) とはいえ、まさか目の前に厳然として有るものを無いとは誰も言えない、と思われるでしょう。が、あに図らんや、魂の奥底では、本当は無いけれどもそのように見えているのだ、という事が分っているのです。日本は伝統的にこの霊性が文化を育んでいます。法華経に学んだ聖徳太子の言葉とされる「世間虚仮唯仏是真」は、このような霊性が培った精神風土にあって初めて語られる言葉だと思います。今日求むべきはこうした文化を伝統に持った極東にして日出づる、日の本大和の国にありました。そして必ずやここから救いの神業は為されるはずである!36年前に私は『龍法聖画論』を書き留めていく中でそれを知らされたのです。1978年のことでした。   
 
 
 
8■私は<我>が認識する事物や事象は、それが時間的、空間的に<我>に近ければ近いほど、<我>にとって限りなく<存在や真実>に近いものとして現象する幻想であると考えています。さて、1万光年先で、ある星の寿命が尽きて爆発が起こりました。その時の光を今地球上で観測したからといって、その星が今在るとは誰も思わないでしょう。その星は1万年前に消滅しているはずだからです。それを言うも今目の前にある物を言うも同じこと。見えるからと言って今そこに物が在るわけではありません。しかし悲しきかな、今あなたが手に取って読んでいるこの『教科研究報告3』はそれでも確かに存在している。これは真実である・・・ですか?いいえ違います。そう断言して間違いないくらい極めて<存在や真実>に近い・・・しかし、あくまでもそれは幻想にすぎません。ここで<科学>です。 <科学>は目に見えたものが今まさにそこに存在しているという虚仮の認識を大前提としながら、その後二千数百年をかけて構築されてきた、限りなくまことしやかな理屈の体系です。そして現代人は、この良くできてはいるが幻想に過ぎない<科学>というものを唯一の真実であると信じています。これが私の言う<科学という宗教>の概念です。もし今あなたの周辺に<存在や真実>があるとすれば、それはこの『教科研究報告3』という幻想を見ているあなたの<我>でしょう。似たような事を考えた哲学者がいました。デカルト―コギトエルゴスム。しかし、もしこういう言い方をするなら「我思うゆえに我あり」ではなく、我思うゆえに我ありと思った我がつい今しがたあった、 としか言いようがありません。そして、つい今しがた在ったはずの我も過去のものであればもう既に存在してはいません。<存在や真実>については知り様がないのです。それこそ信じるのみです。そしてここに神様仏様が存在しています。
 
 
 
9■1984年8月6日には義淵の句のほか「汝はあと少しで神との接点を見出すであろう」という予言を恭仁(きょうにん)という私の母方11代前の御坊様(天台宗)からいただいております。(H氏の言)さらにはニギハヤヒノミコトから数々の教えを頂きました。(人間の感性世界を司る神様であるとH氏は言いました)またこの前年の1983年8月末頃(日付不明)にはマリア様からご神託を授かっています。(私の後輩で美術家であると同時に優れた宗教家でもあったY君との対談中に現れ、Y君が聞いて語り、私がそれを書き留めました)そこでマリア様は「あなたの絵の中に私があらわれます。絵の中で出会いましょう」とおっしゃっておられます。義淵の句といい、恭仁様のお言葉やマリア様のご神託といい、いずれも不可解なものでしたが、なるほどこういうことだったのかと、これら全ての疑問が一気に氷解したのがこの絵を描き上げた時だったのです。思わず鏡を手に取って描いていました。私の絵の中で聖なる人影に出会いました。まさしくこれが神との接点ではないのか?!・・・1985年11月3日、和の国の文化の日のできごとでした。私はこの絵を描き上げたことで、その7年前 (1978年) に知らされた通り、ついに「救いの神業」が為され始めた、ということを確信したのです。
 
 
 
10■私が、私とフェノロサとのただならぬ関係に気付き始めるのも1978年からです。そのちょうど100年前(明治11)に明治政府に招聘されたフェノロサは日本美術に触れることによって「真誠の画術」を求めるようになります。油絵でも文人画でもない世界に通じる新しい日本画を夢見たのです。フェノロサは時の日本人以上に日本文化の美しさを理解し愛していました。廃仏毀釈で破壊されようとしていた、今なら国宝・重要文化財級の名作を含む多くの美術品が彼のおかげでその難を免れ、今もボストン美術館のコレクションとして保護されています・・・。ここまでは六識、教科書通りですが、これより先は私にしか分かりません。フェノロサの本性は菩薩です。(1885年5月、園城寺において桜井敬徳から天台の菩薩戒を受戒している)そしてフェノロサの偉業の中で最も重要なものは、実に、絶対秘仏の封印を解いて法隆寺夢殿を開扉し、本尊である救世観音(聖徳太子)を世に弘めている事にあるのです。なぜならそのことによって太子の観音力を得た私が1985年11月3日に「真誠の画術」を体現することになるからです。私の本性は救世観音(聖徳太子)と一緒に法隆寺夢殿に閉じ込められていた龍です。出してくれたのはフェノロサ菩薩。フェノロサはその夢を私に託したのでした。(真顔で言ってますよ。根拠があります。まず私の名前が坂本龍彦です。そんなもん根拠にも何にもならんだろうと言って笑う人、怒る人、みんな悲しいくらい宗教センス全くないですからwww(^_^)/ 私の宗教上の最初で最後の師、「郷里松山のI師」は私を見て「一千年の眠りから醒めた龍が、ここぞとばかり全力で天空を駆け巡るの命」とおっしゃいました。私が17歳の時です。また、専門筋には有名なフェノロサの「美術真説」は龍りゅう池会ちかいの席上で説かれています。更に、父母が観音に祈って生まれたという(ここは諸説あり)あの義淵は龍蓋寺を建てた人物です。こんなこともありました。人の首がいろんな動物の首に喩えられて見えて来る「霊能者O氏」(1986年頃に会った)は私を一瞥するなり、これまでに見たこともない恐ろしい動物であると言ってたいへん驚いていました。私とフェノロサとの出会いを予言したものであると解釈されるI師のお言葉もあります。私が18才のときに志立ったことをI師に申し上げると、師は「大阪湾のヘドロの海の中で生まれ育ったお前は、まれにも淀川の河口を見出した。これ以後どんどんとこの淀川をさかのぼり、ひとまず琵琶湖にたどり着くであろう。」とおっしゃっています。琵琶湖にフェノロサの霊が眠っているのをご存知ですか?フェノロサの墓が琵琶湖を見渡す園城寺(三井寺)法明院にあります。そしてそのすぐ近くに、永く比叡山延暦寺の門前町として栄えた大津市の坂本があります。これでもまだ不十分ですか?この手の話にはまったく事欠かない。1984年には「地球のへそ神聖琵琶湖」に見立てられた私のパレットに「とぐろをまいて何かにじっと耐えながら、眼光鋭く虚空を睨み付けている一匹の巨大な龍」とフェノロサと思しき異国の老人が現れています。注意!ここは1984年に私が自分で作ったといえば作ったお話です^^; が、全く自分の意思だけで書いたとも思われない。でもまあそんなことよりも何よりも、自分の事なんですから自分が一等よく分っています。龍になって見せてあげる事ができたら一番良いのですが、形を変えるわけにはいかない。形は人間なんです。これは霊的次元のお話です)話もとい!ともあれここで大切な事は「真誠の画術」が体現されたという事そのことではなく、人類がそれを文化として支えることのできる霊性に生まれ変わらねばならないと言うことなのです。そしてそれは為されています。私も絵画も人類もみな救われます。ここがフェノロサにも見えてなかった私のオリジナル。全ては神の意思、自然の摂理のなせる業でした。しかしこの神業はそんな派手なものではありません。私たちは毎日のようにこの奇跡を目の当たりにしています。日が沈み、夜が来て、そしてまた日が昇る。ただそれだけのことです。ただ、それが二千数百年の周期で起きているのであろう地球生命の一日(半日?)なので気付きにくいだけです。私はこれを『曙光-1990年』において「霊的曙光の奇跡」と呼びましたが、そのイメージは『龍法聖画論-1978年』で既に著しています。すみません!今ちょっと調子に乗って恰好つけちゃいました^^;。著すだなんてそんな上等なもんでは全くありません。当時は随分と揶揄されたものですがそれも仕方ない。今、自分でも恥じているような、そんな代物に過ぎません。が、とにかくここで私はこの人智を超えた神業に触れることができたということは事実です。(前述した通り私は人ではありませんから(^_^)/)・・・『龍法聖画論-1978年』についてはその12年後にまとめた『曙光-1990年』で次のように振り返っています。「不学と無知が自信たっぷりに断定した珍妙な誤謬の数々と、直感だけが雄飛する論にならない論理の飛躍は確かに笑止の沙汰・・・にもかかわらず、なぜかその結論は真実なのであります。して、その大意は―人類史は間もなく悲劇的結末によってその幕を閉じようとしているが、私が現代絵画の抱える造形上の諸問題を克服して絵を描き続けると共に、それに呼応して人々の霊性が飛躍的に変化・成長することになっている筈なので、世界は大事なく救われる。現代文化に沈滞する冷え切った暗黒の混沌と不安は、我々が創り出す新たな文明の陽光が東天より差し込み来たる直前の闇夜のようなものであって、朝昼夜を輪廻する地球生命の、単に過渡期の様相が現象しているに過ぎないから何も心配することはない。やがて間もなく、霊的曙光の奇跡によって世界はシュールに輝き、人類は内面から救われるべく転生する事になるであろう―」と。また「奇妙なタイトルに始まったこの未熟にして尊大に過ぎる学生時代の作文を恥じていないわけではありません。が、真実はどうしようもなく真実なのです。幼くも今日第一級の超越的感性が説いた法華の現代美術論。これより上はありません―」とも。・・・なんとも鼻持ちならないプライドというか気負いというか、そういう時期だったんです仕方ありません。たった一人で孤立無援のまま、人知れず人類滅亡の危機と闘っていました。(真顔です!)そして私は描くことを通じて人類の救いの道筋を照らしていくことを誓ったのです。・・・こんな人間がこの現実社会をまともに生きて行けるわけがない。その後間もなく左肺自然気胸を繰り返し(1980~1983)、交通事故で一度死ぬことになります(1982年11月27日)。常識知らずは社会疎外が顛末。全く働けない体になっていましたが、翌年には埼玉県に教員として救い上げて頂きました。また1983年1984年と続いて、天界から数々の励ましのお言葉を頂きました。それにしてもよくもまあこんなで仕事が務まったもんです。いや正直務まってなかったです。いろんな形で誤解も生まれました。しかし生きることに不真面目であったわけでは決してないのです。ですからどうかこの龍を許してやってください。
 
最初に心配した通りまったく無茶苦茶な話になっていますが、ご理解いただけているでしょうか。易しく淡々と、そして正直に語って来たつもりです。いずれにせよこの作品が私の青春の到達点であり、その後の出発点となり、今日に至っているというわけです。国際展初入選でしたが、絶対にグランプリ受賞だと思っていました。それだけに単なる入選に終わったことに大変失望したのを覚えています。その時に私を慰め勇気づけてくれた女性がいました。このあと「ELLE」(仏語:彼女の意)をタイトルにした作品が続きます。 
 
 
 

11■ELLE 3・FEB・1986 60P oil on panel 1990年個展
 
「善光寺如来御書箱を開けて驚く黒い手の女神」と同じ時期の作品で、全く同じ手法で描かれています。この作品も昨年末に3週間ほど体育館通路で展示させて頂きましたが、ここにマリア様が現れていたのに気づかれましたか?スタイリッシュな女性が左横向きで、壁にもたれて立っている?・・・違います。3年ぶりに再び私のアトリエを訪れた件のY君が言うには、マリア様は正面を向き(その語り口からマリア様はこの絵を見る者に向き合って立っているように思われた)画面いっぱいに大きく大きく現れ、たいへん喜んでいる、という事でした。Y君はほっそりと背が高く、日本的に端正な顔立ちのとても美しい青年でした。芸術を愛し、優れた宗教センスを持っていましたが、悲しいことにはその後間もなく、この日の彼が私の知る、今生で最後のY君となってしまったのです。申し訳ありませんが今ここで改めてY君の冥福を祈らせてください。
 
黙祷・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
 
彼の名はユダ・・・湯田くんと言いました。
 
 
 
 

12■ELLE 28・MAY・1989 50M oil on panel 1990年個展
 
これも私が大切にしてきた作品ですが、校内での展示が憚られました。ご覧頂けなかったのがたいへん残念です。朝から描き始め、途中で何度も挫折しそうになりながら、それでも何かに勇気づけられ、後押しされて描き続けて行くうち、夕刻になってからの3時間ばかりで一気に完成に向かいました。その後、何年もたってから初めて気が付いたのですが、この作品を書き上げた日は「郷里松山のI師」のちょうど一周忌にあたる日だったのです。この日、師はずっと私を見守り、勇気づけ、応援してくれていたに違いありません。
 
 
 
13■「霊的曙光の奇跡」に触れて絵画表現の芸術的蘇生を説いた『曙光-1989年』は、郷里松山のI師に奉げられました。ここでその「あとがき」の全文をご覧ください。
 
今日の絵画世界といわゆる現代美術との2元的対立構造は、位相を変えながら100年前の日本に縮小されていく・・・・・・!実にフェノロサはこれを見ていたのです。そして「真誠の画術」はそのいずれでもない、と説く。つまりそのいずれでもあると言う意味で――。とすれば今日それは、少なくとも絵画表現の形式を備えたものである筈なのです。そしてやはり日本文化の伝統にその秘密を探りたい。芸術としての絵画表現は、画面上の物や観念を越えて魂から魂へと積極的に見入ることが出来る霊性によって支えられます。絵画表現の芸術的蘇生を説くことが本誌の目的ですが、そのためには人類文化全般に係る「霊的曙光の奇跡」に就いて触れておかねばなりません。・・・しかしこれを理解する必要はありません。既に人智を超えています。信じても信じなくても良いのです。我々の如何なる意思をも含んだ神の意思です。~「すなわち一方では、方便を方便として見抜くだけの霊性が人に要求されている。が、もとより日本の古典文化は、おそらくこうした精神風土のもとで培われていたに違いないのだ。太子は言う、世間虚仮唯仏是真-と。」ところで4年前の文化の日、国民的集団無意識の奥底から俄かに浮上してきたあの善光寺如来御書箱。もしかするとこの日出づる大和の摂理が秘められているのかもしれません。少なくとも時は得ています。優れて日本的な画業に生きた近代日本の洋画家たちがその近代化の過程にあって肺を病み、不遜に過てる日本が敗戦の屈辱のさなかで一度死なねばならなかったその後に、霊的曙光を兆した「神の絵馬」は出現し、人類は「運命的回帰による一種の到達を直感」するのです。 1989年8月27日   
 
――1988年5月28日に亡くなられた「郷里松山のI師」こと石崎馨ISHIZAKI Kaoru師の御霊に捧ぐ――
 
 
 
14■There is not so much work after“曙光-1990”. The assignment given by God was to study English hard. This lasted ten years. It was not until I came here to Wakoku when I started practicing painting again.
 
 
 
15■和光国際高等学校・・・略して和国。誰しも明らかにそれを想い起こしながら誰も口にはしません。口にできません。その理由もないし、また安易に口にすべきことでもないからです。しかし私の知る限り歴代の校長先生の中でも現在のK校長先生は、この和国に対して初めて「和の国」という呼び方をなされました。また「和の国文化」とも。それを初めて耳にした時、私は一瞬ドキッとしたものです。生徒たちが居並ぶそのすぐ横で立ちすくみ、無言のまま狂喜に身を震わせておりました。しかしそれは同時にある種の危惧が入り混じった怖れでもあったのです。幸いにも校長先生は今一歩踏み込まれませんでした。確かにそこから先は神仏との対話の世界であって埼玉県教育委員会のあずかり知る所ではありません。仮に私が校長先生と同じ立場にあったとしてもやはり言及は避けたでしょう。それはこの現実世界に意味を成さない妄語であり、周囲にあらぬ誤解を引き起こす禍の種となります。だが真実は―、真実はまさしくそういうことなのです。
 これより先は七識八識、八識九識。地球生命は意識の底の宗教的芸術世界に雄飛してきた坂本の龍がその一切の責を負わねばなりません。私が語ります。和国とは和の国のこと。単純明快なれば誰がどう考えても極東にして日出づる、日の本大和の国の事には 惟(これ) ほかありますまい!
 
36年前、「霊的曙光の奇跡」を悟ったその時から、いつの日にか必ず私はここを通過して行くものと思っておりました。それがこの13年間、私が美術科教諭として本校に勤務させて頂いたことの神意であったと解釈しております。素敵なドラマをいっぱい楽しませて頂きました。正直しんどい役回りも少なからずありましたが、今にして思い返せば全てに感謝の言葉しかありません。今年度のアンクルトムやストウ夫人と同じ気持ちです。
 
ありがとうございました。  2014年3月20日 龍
 
 

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