INFORMATION

Talk-77 地図

更新日:

2021年3月に郷里松山のキャメルKで「個展MERCATOR/メルカトル」を開きました。案内に冊子『MERCATOR』を発送しておりますが、そこに同封した地図を巡って、個展以後もずっと私のアトリエでこの「メルカトル」関連の制作と考察が続いておりました。本稿はその一連の活動の記録です。
 
個展情報 https://www.youtube.com/watch?v=agVxFs8t9lo


 
Camel K tel:08031642770 mail:camelK414@ymobile.ne.jp


 
地図


 
 
(1)

この地図の由来は50年前に遡ります。当時高校生だった私は、色々と問題を抱えており何かにつけて孤立し、暗く閉ざされた学校生活を送っておりました。が、やがてそこに【一条の光明】が差し込んで参ります。その年度の芸術科目には美術を選択していたのですが、そこで「具象的非具象の洗礼」を受ける事になったのです。それは今思い返してみても非常に素晴らしい、極めて創造的な油絵の授業でした。それまで抑圧されていた諸々の感情はそこで一気に解放され、私を取り巻く世界もその後は次第に明るく輝き始めたのを覚えています。誠に魂の救われる思いでありました。
 
具象的非具象:恩師の授業の一つ。ここで学んだ油絵の描き方が、そのまま現在の私の作画法に繋がっている。
 
そのあとは早かったな。2年後には卒業と同時に大志を抱き喜び勇んで上京する画学生がいたよ。本当に嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。大言壮語しながら既に大家を気取っていたな。「一、命才与ヘ給ヒシ我ガ祖我ガ神篤ク信仰スベシ 一、天命自然ニ身ヲ任セ且ツ代理自然ノ選択ヲ行ヒ常ニ自然人タルベシ 一、先ズ己ノ天才ヲ信ジ然ル後ニ全身全霊ノ気概ヲ以テソノ道ニ努ムベシ」(立志祈念銘1973年6月1日作)ついには自分の言葉を座右の銘として朝な夕なに唱え始めたよ。確かにこれでは色々と問題を抱えて孤立していたのも頷ける。が、ともかくも油絵との出会いからあっという間の50年を経て、今こうして郷里松山の錦町にあるキャメルKで個展を開いている、と言うわけさ。しかしこれがとても“錦を飾る”なんてもんじゃないんだ。志立って以来ずっと絵の道を歩んで来たわけだが、それで有名になった訳でもなければ絵が売れてお金持ちになった訳でもない。昨年に至っては「JIAS論」と「MERCATOR」を編集して(Talk-76 )それまでの関係筋とは袂を分かつことになった。活動場所に今はもうパリも東京もないし何の肩書もない。両親が残してくれた家が松山にあるだけさ。松山にアトリエを構えたと言えば格好はつくが、実際50年前と何も変わってはいないんだ。全く情けない話だよ。さて地元でこれから一体どうしたものかと考えあぐねていた矢先、あれよあれよと話が進んで気持ちの整理も追いつかぬまま、こういう事になっているって訳なんだ。しかしそれにしても、それにしてもだよ。私が個展を開くならここじゃないだろう。過去50年間に渡る全身全霊のこだわりは一体何だったというのか?ここはギャラリーとは言っても単なる趣味のアート喫茶。失礼!場末の祠造り。失礼!・・・前言撤回いたします。ごめんなさい。キャメルKは地元のファンに親しまれ、近隣に癒しを与えてくれる「町屋のアートオアシス」なんだ。それはとても素敵なことだよ。面白いのはこの“K”にもう一つの顔が見え隠れしていると言う事だ。正直な処そこに全く興味がなかったという訳でもない。まるで古本屋の一角?かつてを偲ばせる専門誌がぎっしりと書棚に詰め込まれていた。一体誰が読んだというのか<具体>に<もの派>。そして昭和も顕、その歴史ごと剥き出しになった屋根裏からは当時の熱い芸術談義が聞こえて来るようだよ。またその一方では、あの松田一さんも(Talk-60)ひと頃は随分と“K”に肩入れしていたと聞く。・・・が、兎にも角にも今のこの状況は決して本意ではない。しかし何かあらがえない運命的なものに引き寄せられて今私がここで個展を開いている、という事は紛れもない事実なんだ。いいだろう、もう文句は言わんよ。自然の流れに身を任せるさ。それよりつい先ほどまで、私に多大な期待を寄せて東京に送り出して頂いた恩師がお見えになっていたんだ。ご招待しておきながら、今の自分が惨めでほとんど何もお話しできなかったな。コーヒー一杯を召し上がって頂いたのが精一杯の恩返しだったよ。「つらかろうおれも乞食を50年」・・・あの「驚異のこつじき10円手相師さん」の背負った言葉がつくづくこの身にしみ入った。 
 
(アトラス出版/刊行目録/十円易者村上桂山(むらかみけいざん)・風狂の路上人生 shikoku.ne.jp)
 
ところでこの地図。今しがたお帰りになった恩師のテーブルに残されていたこの地図だよ。これは元々あった画廊の地図をもとに、私が今回だけのためにわざわざ作り直したものだ。やる以上はそりゃもう地図一つにも全力でこだわったさ。しかし如何せん祠造りの・・・(咳払い)。とにかく全く不本意ではあったが、やるだけの事はやった。「冊子MERCATOR」(Talk-76)と一緒に個展案内としてこの地図を発送したのは確か2週間前だったな。そうかすっかり忘れていたよとおもむろに、向きを正して覗き込んだその瞬間・・・右下奥に日尾八幡神社とその龍神社(Talk-56)が現れた。すぐ左手には桂山地蔵が鎮座する。右上には母校である東高と附属中が見えた。(腰の手術で高一を1年間休学したため、高校在籍は4年となる。油絵に出会ったのは在籍3年目で2年生の時。それまではただひたすら辛いだけの高校生活だったな・・・)そしてその背後に控えるは道後の地霊。(「13才から守るなり」とは守護霊恭任様のお言葉。私が13才を迎えた中一の1年間は一人親元を離れて道後に下宿せねばならなかった。今にして想う、本当に護られていたよ・・・)また“K”に戻って今度は上に向かうとそこには、私が「Kami-Kiri」(Talk-6)と奇跡的な再会を遂げたヘアメイク‐コルトルンゴがあり、そのすぐ左には「郷里松山のI師こと石崎馨・師」(Talk-15)から最後の予言を賜った日赤(松山赤十字病院)があった。啓示はここで終わらない。“K”を中心としたこの地図はその後松山全域に広がり、県をまたぎ国を越え、更には六大陸三大洋の全世界をも包み込んで行ったではないか。間違いありません、これはメルカトルです(Talk-68)。『西暦2021年3月21日から27日までの七日間、キャメルKは二千五百年の果てに現れた日の本一の祠であるぞよ。ならば日の本全土の地蔵菩薩をここに集結させようぞ。そして弥勒菩薩をお迎えし、コロナ禍を超克した後の新たな二千五百年に世界を導いて頂くのだよ。呻吟すれば全世界いや全宇宙に祈りがこだまするぞよ響くぞよ。』こうして私は「日の本一の祠なる神聖キャメルK」にて個展を開く定めの神意を知らされたのであります。2500年も前から既に決められていたよ。!? おかしいですか?全てはあるがまま、この通りです。刹那の出来事でした。つまりこの2500年の歴史の一切全てがつい今しがたの一瞬にあったってことさ。あなたがこの世に生まれて来たってことも含めてね。これを<今>と言う。(Talk-59)・・・話は続きます。3月24日(水) 
 
 
 
(2)
 
因みに<我>(Talk-59)の発見は「具象的非具象の洗礼」と同じ年で1971年の事だったよ。当時、高校では「倫理社会」という科目の授業があって、そこで「我思うゆえに我あり」というフレーズを学んだのだが、これは面白いと思って家に持ち帰り、検討して行く内に考えが<我>に至ったという訳さ。この高校生によるとこの時、神仏の存在や信仰の大切さまでもが証明された、と思ったらしいが、まあ今それはともかくとして、取り敢えずはThere is nothing that exists in this world but <I>.(Talk-59)と言うことになった。もちろん当時は日本語だよ。そして認識の一瞬手前の<今>にあると推測されるこの本当の自分以外はみんなこの世の幻だという事になってしまった。自分で言っておきながらとても信じられなかったな。(笑)!今ふと思い出したのだが、この教科に関してはもう一つ特記すべき事があった。当時の教科書(昭和46年度愛媛県立松山東高等学校採択「倫理社会」)に「釈迦は6年間の苦行の後、菩提樹の下で悟りを開いた。」(記憶ではほぼこの通り)という一文があったのだが、ある日、黙読がここに差し掛かった時、一瞬時間が止まったような不思議な感覚に襲われた。と、ただそれだけの事なんだけどね。・・・さて、この後「倫理社会」とは全く無関係に翌年画業を志すことになったのだが、今日はそこから6年後に私が書き付けたものをご覧下さい。※↓これです。
 
※「悟りはまた同時に諦めでもあった。物・観念の執着を断ち切るための聖なる努力。その尊い執着さえも最後には捨てねばならないのである。我が釈尊は解脱の後、なぜそれまでの苦行を捨て、人々と共に生活するようになったのか、知る者のみぞ知る。それは教えを広めるためでも、人々を救済するためでも何でもない。一度は九識・仏界を求めて、苦行を通じ六識を絶ち、七識、八識と彼の意識は魂の内奥深く沈潜して行き、ついに仏を覚知するに至ったが、その後は物・観念の衣をまとわなければ、即ち、六識に生きねばその悟達の感動を持続展開させる事が出来なかったのである。(『龍法聖画論-1978年』Talk-20)
 
 
 
(3)
 
ここでちょっと整理しておきましょう。最初からずっと、個展案内の地図にまつわるお話をしておりますが、そこはよろしいでしょうか?個展の後、4月上旬には(1)をもって一度締めくくり、ホームページにも掲載しておりましたが、これがどうにも落ち着かない。実際問題として「これはメルカトルのお告げで個展は2500年も前から既に定められていたよ」で話を括れる訳がない。私一人ならそれで良いのです。充分納得しているのですが、このまま外に出す訳には行きません。それに一区切りついたと思われてからもここに(地図に)色々なものが次々と現れて来ます。これは只事ではない。私はこの啓示の意味をとことん追求して行く事を決意しました。しかしその一つ一つが並大抵のものではない。とても一筋縄には参りません。以来ずっとこの地図の記憶を辿りながらこの50年、この2500年をあてどもなく彷徨っております。この地図との格闘が始まって既に4ヶ月が経ちましたが、収束が見えず途方に暮れるばかりです。しかし今ここで諦める訳には行かない。間もなくこの松山にも第5波のデルタ株が襲って来る事でしょう。しかしコロナ禍を超克した後の筋書きは既に約束されているんだ。何よりこの間の制作に手ごたえを感じている。私たちの<呻吟>は既に響き始めております。7月24日(土)
 

山茶花のメルカトル‐呻吟 2021年4月 49×88cm
 
 
 
(4)
 
私が多摩美の修士課程に進んだのは1977年の春先でしたが、その頃には当初あれほど嬉々として学んでいた油絵(Talk-1最初の2点)というものに深い絶望感を抱く様になっていました。学部の4年間を過ごした八王子の大学寮を出て東久留米の愛媛県人寮(常盤荘/ときわそう)に移りましたが、そこで<現代美術>に転向し、決死の覚悟で蘇生の活路を模索することになります(Talk-40の1)。<現代美術>との関わり方はそれぞれにあったと思うが、少なくとも<油絵>と言うものに向き合った事のある者は皆、大なり小なりこの試練を通過しているはずなんだ。そうだろう我が同志たちよ?・・・時折しも李禹煥(Lee U-Fan)の「点より・線より」の平面作品が脚光を浴びており、氏の著作である『出会いを求めて』は<現代美術>に転じる美大生の必読書となっていた。そして氏ご本人は、当時上野毛にあった多摩美の大学院でゼミを持たれていた。迷わず選択した。本も買った。読んだ。読んだと言えば他にも『美術手帳』がある。不思議だ、この月間誌も1977年度78年度に限っては、まるで当時の私のために編集されたかの様な内容だった。2年間購読を欠かさなかったよ。院ではまた近代日本美術史の権威であられた故・佐々木静一先生の技法材料学とフェノロサ論を学ぶことになっていた(Talk-45の10及びTalk-32)。実技の授業はついに一日も出なかったよ。<油絵>はやめた!というか一度白紙の状態に立ち戻ってみる事が必要だったんだ。そこから近代を超克すべく再出発する、と言う事。これが<現代美術>と言う戦後に興ったあくまで一時期の特殊な美術文化だよ。今言う所の<現代アート>ではない。常盤荘の自室に籠った私は、壁に掛けられた何も描かれていない<白いキャンバス>の平面をじっと見詰めていた。狂いそうになってはアンフォルメルまがいのことをやり、やっては潰し、潰しては又同じことを繰り返していたな。朝な夕なにひたすら祈ったよ。それまでの絵描き仲間たちとの繋がりはきっぱりと切れた。嗚呼、今にして思えばこの時期全ての出会いと別れのタイミングがあまりにも絶妙まさに神業。全てはみこころ天命自然。言わせてくれ、誰しもあるだろう?ずっと後になって、そうだあの時確かに自分は何か超越したものによって導かれていた、と思う事が・・・そして1978年の後半に常盤荘で書き溜めた2年間にわたるメモをもとに『龍法聖画論』(Talk-20)を編集したのだった。嗚呼、ここには全てがある。この「地図」さえもが既に! 
 
ところで『出会いを求めて』のサブタイトルは「新しい芸術のはじまりに」だったと思うのだが同志たちよ、覚えているかい? 確かにここには<具体>や<もの派>等々に展開して来た戦後日本の<現代美術>、特にもの派のリーダーと見做されていた李禹煥(Lee U-Fan)の活動を通して、次代を見据えた新しい芸術観が形成されようとしていた。そしてその直後、疑似絵画空間である<平面>の「点より、線より」では「芸術的に蘇生した絵画表現を基軸とする新たな芸術体系の秩序」→ p8,p19さえもが見えかけていたのだよ。少なくとも私にはそう思えた。いや、絶対にそうだった。しかし<現代美術>が美術芸術の伝統を否定したままでは、それは望むべくもない。なかんずく<平面>が「ものを見ない、ものを描かない」というこだわりから解放されない限り「新しい芸術の始まりに」とは断じてなり得なかったのだよ。<現代美術>分けても<平面>には最後の決断が求められていたんだ。「物・観念の衣」をまとうべく六識に立ち戻ると言う大英断が。※↓
 
※ここで先の(2)で紹介させて頂いた『龍法聖画論』の一遍を今一度ご覧下さい。この1978年のメモは戦後日本の<現代美術>が紆余曲折しながらも最後に李禹煥(Lee U-Fan)の「点より・線より」を経て彼岸に至るまでの過程とその後にあるべき姿を「我が釈尊」の苦行の過程に重ね合わせて説いた大乗の極意、至高の芸術論であります。未熟な25才が精一杯の背伸びをして大見得を切ったこの荒唐無稽をあなたもやはり揶揄されるだろうか?私はかつても今もそれを否定するものではありません。確かに茶化してみたくもなるよ、これは。しかし今回この50年を振り返る事で初めて見えて来たものがありました。これだよ!これだったんだ、あの時一瞬私の時間を止めて伝えられた天の黙示は。今の今まで気付かなかった。そうだ、その刹那に私は仏道を目指さねば、とさえ思ったではないか。しかし現実には翌1972年1月11日に画業を志す事になったのだった。そうだった・・・絵描きになってからというものそれ以来、あの不可思議な一瞬の事をすっかり忘れておりました。
 
 
 
(5) 
 
「最後の大英断」は手つかずのまま残されていた。しかしさすがだね、李禹煥(Lee U-Fan)は内心気付いていたよ。でも語らなかった、いや語れなかったんだよ。なぜならそれを語ってしまえばその時点で氏の仕事は終わりだからね。わかるだろう?私の大学院時代の先生に対して大変失礼なものの言い方になりましたがこれは真実です。かくして時が過ぎれば<現代美術>全般に亘ってその研ぎ澄まされた芸術感覚は誰に継承されるでもなく、形骸化した作品群もろとも日常の世俗に没するが平成。既に昭和の末期には国外由来の“Contemporary art” <コンテンポラリーアート>の流れに吞み込まれており、その後は野となれ山となれ、無残も無残、日本では<現代アート>と巷で呼ばれるようになって今日に至る(2021年)。心の底から愛した近代日本の<油絵芸術>と艱難辛苦の日本的<現代美術>に学んで来た私にはいかにしても容認しがたいこのふざけた糞<現代アート>ですが、令和に入って平成が歴史化されて来た今、もう私も一々目くじらを立てる様な事は無くなって来たよ。それはそれで一時代だったのだと思うようになった。ここでお手持ちの冊子『MERCATOR』19ページをご覧下さい(Talk-76)。「壁に掛けて展示される枠取りされた四角い<作品>は一体何なのだろうかと問い詰めながら40年。一時代前には<絵画芸術>と呼ばれていました。<アート>では決して語り尽せないものがあったと思うのです。」と、相変わらず<アート>に対しては敵意をちらつかせていたな。ちょうど一年前(2020年6月頃?)に書いたものですが、私がこの「地図」に取り組んで格闘することがなければ未だに<現代アート>が容認できないままであったかも知れません。この度はおかげで新しい発見がありました。いや実際の処この発見は非常に大きい。決定的だよ。今、私の周辺がきれいに見通せている。・・・<現代美術>を知らない今の若い<アーチスト>は私が何を言ってるのかさっぱり訳分からんでしょう?いや、それでいいのだよ。先達が四苦八苦しながら何とかやっつけて来たものをきみたちはいとも簡単にやってのける。どうですか?今では当たり前のように枠取りされた四角い<作品>を絵だとか平面だとか言いながら、ギャラリーや美術館と呼ばれている特別な空間の壁面に展示しているでしょう?立体なら床に寝かせたり壁に立てかけたり天井から吊るしたり・・・ほう、それは空間演出と言うのですか?こちらはインスタレーションですね?ビデオやネット表現もあるんだ。挙句の果てには何だって?サブカル楽曲アーチスト、野外だコラボだ環境だのと、そうか最後は翻訳で繋がるコミュニケーションだったんだァァァ阿呆!・・・甘い!軽い!ふざけんな!??? 論点がずれている。<現代アート>の功績について語ろうとしていたんだ。ごめん、そうだった。確かにお前ら・・・失礼!きみたちは糞だが・・・失礼!(咳払い)・・・きみたちの<現代アート>には評価すべきものがあると考えています。私が語るのはこうだ。こうして知らない間に、※一見自由に乱立していたと思われる<現代アート>の多様な表現形式の間には、秩序だった芸術体系が新たに構築されていたと言うことなんだよ。芸術的に蘇生した私の絵画表現がその基軸を支えています。今後はかつてのように奥行きのある豊かな芸術文化が花開くと思います。これが日本のポスト<現代美術>である平成<現代アート>の持つ意義であり、この「新しい芸術のはじまり」は今後私の周辺から世界中に伝搬して行くと考えています。ただし言っておくが私抜きではお前ら糞のまんまだからね。別に私が何かをする訳ではないが、きみたちと一緒にいるという事が大切なんだ。お互いにね。きみたちが居てくれなければ私だってホント、糞でしかない。だろ?これは共存とそのバランスの問題なんだ。この調和をもたらすバランス感覚が新しい時代を築いて行くと思うよ。相克するものが共存することによって、お互いが共有できる新たな価値を創出しながら共栄して行くのさ。これも対比と調和の・・・言うなれば「関係項」(李禹煥/Lee U-Fan)かな? こうしてみると我々の存在それ自体が既にアートだったんだね。作者に会ってみたいもんだ。 
 
 
 
(6)
 
私にとって<現代美術>とは李禹煥(Lee U-Fan)先生の事でした。ここで『龍法聖画論-1978』から次の一節を紹介させて頂きます。これが一番分かり易い。それにたとえ書かれたことに間違いがあったとしても嘘にはならない。全てはあるがまま。この通りです。どうぞ茶化さないでご覧ください。先の「大乗の極意」と同じく、この恥さらしな荒唐無稽の実直はまた私の誇りでもあるのです。
 
リーウーハン先生のこと◇私が前衛時代に師と仰いだ方は、リーウーハン先生であったが、あまりにも同じ事を感じ考えておられたようで、非常に勉強しにくかった。むしろあまり学び過ぎぬように心掛けたほどであった。ただ師と私の決定的な差異は、師があくまでも物を見ない、物を描かない所から出発しておられたのに対し、私はそれを死守したという所にある。私が一切に行き詰っていた時、何気なく手にした師の書物を読んだ時ほど深い感銘を受け、勇気づけられた事はなかった。それまでに私が懐いていた前衛と呼ばれる人々への偏見がかき消されてしまったと同時に、急速に現代美術の研究に踏み込む事になった。古典時代に於ける私の作品から、物・観念の肉付けを取り省けば師の様な作品になる。師のお言葉は、それまでに私が築いて来た仕事の骨格構造を的確に語ったものであった。それまでは独自の個性としか思っていなかったものが、極めて普遍的真理に貫かれたものである事を知らされ、師を通して私は私の本来を自覚し得たのであった。私の口をついて出て来る言葉が、内容はもちろん、言い回しまで師のお言葉に酷似している所がある事に気付いてからは、一切師の書物を読まぬ事にした。師の洞察の深さとその的確な文章表現にはとても叶うとは思えないが、師の思想はやがては私自身が、たどたどしくも自ら言葉して行かねばならぬものばかりである。ただ私には、生まれながらにして既に師を凌駕していた点がたった一つある。それは私が、師の時代、師の世代に取って変わるべき新たな時代、新たな世代の最先端に属しているという事である。(『龍法聖画論-1978年』より一部省略ほかママ)
 
いつだったか、先生は我々ゼミの生徒たちに「きみたちは作品に何を見ようとしているのか?何を見せようとしているのか?」と核心に迫る質問を投げかけられた事があったよ。自らにも問いかけるようにね。「・・・透け透けなんよね!」☞ p12と言う熱い語り口を断片的に覚えているが、具体的にそれ以上の事はあまり語られなかった。先ほど述べたように分かっていても語る事が出来なかったんだよ。いや、半分はやっぱり分かっておられなかったと思うな。その証拠に氏には「出会いの現象学」が限界だった。超克すべき近代の壁はかくも厚かったという事か。・・・私の理解が及んでいなければごめんなさい。43年前の正直な印象です。でも今や<近代>のみならず<現代>さえも越えちゃってれば近代性の超克も何も関係ないね。それより我がアーチストたちよ、謳い給えよ!その方法論を巡ってもう何も悩み苦しむことは無い。きみたちの想いのたけを存分に謳いあげてくれ給えよ、今こそ!
 
そして「Talk-59の9」・・・ここに求むべき「出会い」があり、本当の意味でのコミュニケーションがあると思うのです。
 

農家の庭先(松山市鷹ノ子) 4月24日 ペンスケッチ
 
 
 
(7)
 
これより「霊的曙光の奇跡」を説きます。この先は次元が違うのでそのつもりでご覧になって下さい。「?嘘だろ!」って思いながらね。(笑)なお、一つ一つの段落は関連している様ですが、必ずしも繋がってはおりません、時に内容が重複することもありますし時系列が前後することさえあります。ここはまた例によって話あちこち飛びます。この移り気な気質が描線に表れると上の様なスケッチが出来ました。今でもたまにこんな事やっていますが、もう目が付いて行かない見えてない。小手先震える、日付け間違う。でも、その時にしかできない作品であれば良しとしています。
 
(2)←※「・・・物・観念の執着を絶ち切るための聖なる努力・・・」 本人も良く分かっていないのでわざとこんな伝わりづらい言い方をしているのです。が、この25才がそこまでして虚勢を張らねばならなかった気持ちが私には痛いほど良く分かります。何と言ってもご本人様ですからね(笑)。それまでキャンバスの上に表れていたイメージ、これが「観念」です。これを払拭しますと絵の具が残ります。これが「物」です。敢えて一度これらを取り除いた<白いキャンバス>の平面に、真の「出会いを求めて」決死の覚悟で再出発したのが私の<現代美術>でした。さて、本来「物・観念」は不可分一体のもので<我>(Talk-59)が向き合っている世界であり「世間」の事です。つまり煩悩ですよ。ここに「我が釈尊」の苦行が重なったという訳です。これより先は次元が違う。(7)識(8)識と道は続きます。
 
ペンスケッチは冊子『MERCATOR』にも2点掲載していますがいかがでしたか?ものを見、見ながら描く写生はそれ自体が既に芸術であると考えています。今はもう玄人筋はみんなバカにして誰もやろうとしない。しかし誰が何と言おうとも写生は一番ダイレクトで基本的な絵画表現であり、そのままの形で既に芸術を成就しております。即身成仏ならぬ即身芸術。この当たり前が見えねばだめだ!もう絵描きやめろ!人間やめろ!これほど良くできているアートフォームはありません。☞DESSINER考(Talk30)
 
画家はものを見ている様で見ている訳ではない。ものを写している様だが写している訳でもない。見る事によってその場その時の描画技術が自然に引き出されて行く、ただそれだけの事なんだ。ここには画家の如何なる意志も働いてはおりません。因みにこの「技術」こそが芸術の本義であると考えます。何と言えば良いか、芸術としての<技術>の意味です。ここで画家は明らかに被写体に対峙しており対象の色や形を写そうとしている、と客観的には思われるのだが果して・・・「描画行為に没頭し無我の境地に入りぬればもはや我とものとの別も無く・・・これ即ち修練稽古の精神論、鍛え抜かれた技なれば・・・」とか何とか、そんなかっこつけた事を言ってみたかったのですが、正直今の私ではとても無理です。本当には分かっていないので言葉が繋がりません。が、ねらいは間違っていないと思います。
 
求道者の姿がそこにありました。50年前、学校(東高)からの帰り道で不思議な光景に出会い思わず自転車を止め、固唾を飲んでその様子に見とれてしまった事があります。ある人物が石手川の河川敷きにイーゼルなるものを設置し、キャンバスなるものを立てかけ、パレットなるもの筆なるものをあたかも法具がごときに携えて、通行人の誰も気に留めない一方向をただ一人じっと見つめておりました。この人物が風景画を描こうとしていたのは明らかですが、それよりもその人物が何か崇高な空気に包まれている事に驚きを禁じ得なかったのです。その姿に強く惹かれました。画家と世界と技術の三位一体、辺り一面浄化され・・・。50年後の今、少し分かった様な気もしています。この人物は祈りの次元に身を置いて居たのですよ。これこそは<写生芸術>の本願。私も絵描きのはしくれ、画業道の行者なればこの本願を見失ってはならない。 
 
https://livecam.asia/ehime/matsuyama/ishitegawa-yuwatari.html 石手川(ライブカメラDBより)                       
 
李禹煥(Lee U-Fan)先生も、最後には何か宗教的なものが道を開くかもしれないとかなんとか、そんな事を呟かれていたかな。(1978年か、もしかすると79年の『美術手帳』の座談会?)
 
李禹煥(Lee U-Fan)先生は私のデッサンに似たドローイングをやろうとしていた。40年以上も前に雑誌の写真でしか見ていないのだが、「これは自分じゃないか!」と思ったよ。しかし氏の場合、作品はそこから発展して行かない。持続的に展開できないんだ。なぜなら「もの」を見ない、「もの」を描かないからだよ。初手の気の高まりは一瞬で一回的だ。しかしそれすらも画家は外界の何ものかに縁する事無しに生み出すことはできないと思うのだが(先生、ここはいかがですか?)、まあ今それはさておきともかくも、画家は表現をより豊かなものにするために己の技術の持続的な展開と更なる発展を目指す。そこで「もの」に向き合い「もの」を描こうとするのだが、しかしそれでは元の木阿弥ではないか。もはやそこに感動はなかった筈だった。近代美術には絶望しか残されていなかった筈だった。だからあくまでも「ものを見ない描かない」と言う<現代美術>の姿勢を崩さないのだが・・・来た!ここだよここ、ここなんだ!この度は<現代美術>の姿勢を改めて「もの」を見「もの」を描いても元の木阿弥にはなりません!なぜなら私たちの霊性は転換されており、それ以前と違って透明なものの見方ができるようになっているからです。→ p17 これが「霊的曙光の奇跡」です。この「霊的曙光の奇跡」によって絵画表現が芸術的に蘇生します。分かり易く言うと今面白くもなんともない油絵や日本画の類、タブロー形式の作品が新たな装いと共に再び芸術として蘇るという事です。この奇跡は絵画芸術の復興にとどまらず人類文化全般に亘って同様の影響を与えて行きます。さてこの項、写生論から入って前置きが長くなりましたがここからが本題です。とは言ってももう既にTalk-45で出来るだけの事を書いております。
 
※以下はTalk-45に収録した「教科研究報告3」(2014年)からの引用です
 
6今日のグローバルな人類文化を歴史的に遡及してみると古代ギリシャが見えてきます。絵画表現も、それまでの単純な線画に陰影が施されるようになったという点において、西洋近代絵画のひな形をここに見ることが出来ます。この陰影に着目した画法の特質である再現的リアリズムは、ルネサンスから近代にかけて、科学的な裏付けの下に飛躍的な発展を遂げ、印象派に至っています。最終的にこれは物に反射する光の相対量の変化を捉えて、見えるものを見える通り、客観的に再現するという画法に成長したわけですが、しかしこれは写真の原理であって、絵画芸術が本来目指すべき所のものではありませんでした。西洋絵画における画法の完成は同時に写真機の登場と重なり、その後は道を映像テクノロジーに明け渡すことになります。西洋絵画芸術の終焉です。が、今それはさておき、ここで古代ギリシャの画家たちは、その当時まだプリミティブなものであったとはいえ科学的な眼差しによって世界を捉え始め、再現的なリアリズムを求めてそれまでの線画に陰影を施すようになっているわけですが、私はここに、映像テクノロジーはもとより、総じて現代科学がその根底を支える、今日のグローバルな人類文化全般の起源を見て取るのです。
 
7かくして古代ギリシャ以来、地球生命の歴史は、見えるものは本当にそこに存るものであると、魂の奥底から信じ切っている霊性によって発展して来ました。ちょっと待て!見えるものは本当にそこに在るものなのだから信じるも信じないもないだろう。それに何だ、その<地球生命>とか<霊性>とかいった戯言は、と思われるでしょうが、これは仕方がない。今私は1※「語れぬ神の絵馬」を敢て語ろうとしています。このまま続けます。ものを描く時、陰影をつけたいと思ったこの現実的で科学的な霊性は古代ギリシャに現れ、その後世界中に広がって行きました。この霊性が支える文化が発展過程にあったここ二千数百年の間、それはそれで良かったのですが、「成長と多様化の飽和状態にあり自己崩壊寸前の現代文化」(教科研究報告1983年)に至った今日、私が問題にしたのは、基本的にこの霊性のままではもはや人類文化に未来はない、という事だったのです。温故知新とは言いますが、そこに物が在ると思ってしまった過ちに起因する今日の問題、つまり<科学という宗教>(後述)に洗脳されてしまった現代人の不幸は、もはやルネサンス的回帰によって救われるものではありません。先に見たように西洋文化史の文脈において、科学をその礎に持った絵画芸術はすでに破綻し、崩壊しているのです。音楽や宗教もまた――。ところで、至極当然であると思われるこの人間的な霊性に対して、ものを描くのに輪郭線だけで事足りるとする霊性がありました。この霊性は、現実に対する執着が希薄で再現的リアリズムの発想がありません。そもそも、ものを見てもそこに物が在るとは思っていないのです。そしてその命のベクトルは極東より閻浮提えんぶだいに向っています。(日本から世界中に広がるという意味です)即ち「西の文化がこの描画行為に負わせてきた再現的観念性の原罪も原罪即仏果と見つけたればその神業が絵画表現の芸術的蘇生を極東より閻浮提に問い返す」(DESSINER考‐1990年「技法材料抽象構成」2000年にも掲載)・・・これからの人類文化に求められているのはこの霊性なのです。霊性が転換されることによって、現代人の不幸の元凶となってしまった科学も、この先は方便として生かされる本来の道が開けて来ます。(★極めて重要★結論です)とはいえ、まさか目の前に厳然として有るものを無いとは誰も言えない、と思われるでしょう。が、あに図らんや、魂の奥底では、本当は無いけれどもそのように見えているのだ、という事が分っているのです。日本は伝統的にこの霊性が文化を育んでいます。法華経に学んだ聖徳太子の言葉とされる「世間虚仮唯仏是真」は、このような霊性が培った精神風土にあって初めて語られる言葉だと思います。今日求むべきはこうした文化を伝統に持った極東にして日出づる、2※日の本大和の国にありました。そして必ずやここから救いの神業は為されるはずである!36年前に私は『龍法聖画論』を書き留めていく中でそれを知らされたのです。1978年のことでした。
 
10(部分引用)・・・・・・ともあれここで大切な事は「真誠の画術」が体現されたという事そのことではなく、人類がそれを文化として支えることのできる霊性に生まれ変わらねばならないと言うことなのです。そしてそれは為されています。私も絵画も人類もみな救われます。ここがフェノロサにも見えてなかった私のオリジナル。全ては神の意思、自然の摂理のなせる業でした。しかしこの神業はそんな派手なものではありません。私たちは毎日のようにこの奇跡を目の当たりにしています。日が沈み、夜が来て、そしてまた日が昇る。ただそれだけのことです。ただ、それが3※二千数百年の周期で起きているのであろう地球生命の一日(半日?)なので気付き難いだけです。私はこれを『曙光-1990年』において「霊的曙光の奇跡」と呼びましたが、そのイメージは『龍法聖画論-1978年』で既に著しています。・・・・・・※引用以上
 
1※ 「語れぬ神の絵馬」 : 私の過去の一人であるという義淵の句に「たからかに心の様を語り来て語れぬ神の絵馬を悟れり」と言う句がある。(H氏の言1984年)
2※ Talk-75 Arore-Spirituelleでは「日の本」をFAR EASTと表記しています。必ずしも日本の事ではないし極東でもありません。拙い英文ですが、ここでは更に次元を超えていたと思います。
3※ この時は「ニ千数百年」と書きましたがこれはアポロドロスが活躍した頃から今日までの期間を指しており。本稿での「2500年」を意味します。
 

祠 神聖Camel K 2001年3月 12×18×1.5cm  ※個展に出品していましたがタイトルはこの「地図」と格闘している間に決まりました。
 
 
 
(8) 事の始まりは私個人の緊急事態宣言であった『JIAS論』(Talk-90)の編集でした。パンデミックがここに重なっています。
 

Etude 2017年未発表 81×62×3cm
 

Sasanqua‐etude(山茶花の習作)46×91×3cm 2021年5月
 
思い出す!一つ二つ、もしかすると三つほど次元の高い所から語っていたのだと思うよ。37年前(1984年)の話だがH氏だよ(Talk-45)。私の当然の質問に対して「次元が違う。」と仰っただけで、まともに答えては頂けなかった。今その時のH氏の気持ちが分かる様な気がする。確かに次元が違うんだ、H氏も多分うまく説明できなかったのだと思うよ。※先ほど私が「質問されても困ります。反論されても聞く耳持ちません。」と言ったのはそういう意味さ。だって質問も反論もこちら側からはそれ自体が全く意味を為さない。こんな逸話なかったっけ?ある弟子がお釈迦様に「いつから時が流れ始めたのですか?宇宙はどこまで続いているのですか?」と尋ねると「お前はまだ何もわかっていない」とたしなめられたという逸話。あったと思うぞこの逸話。もし無くても今私が作った。
 
※編集の都合で該当箇所は削除しています。<我>Talk-59のことです。
 
授業で生まれて初めて描いた油絵は導入の非具象だったが、その次の週が「具象的非具象」だった。それは、まず非具象でその時の自分の気持ちを直截に表現し、その後画面と良く語らい合ってそこに秘められた意味を紐解いて行く。そして非具象の効果を壊さないように必要最小限の手を加え、その意味を浮かび上がらせて最後にタイトルを付ける。と、言うものだった。今改めてこうして書き付けながら思い返しているのだが、これ本当にすごい授業だよ。この後50年間にわたる私の画家人生はここに決定づけられている。・・・そうだ、アルタミラ!今後この画法とその作品を<アルタミラ>と呼ぼう(2021年10月25日)。
 
私の処女作は「揺り椅子の女」だった。恩師が「おお、それ良い。まるでマチスだ!」と言って取り上げ、教室の黒板の上に参考作品として掲げて下さった。嬉しかったよ。すぐそばには「本当の趣味と言うものは中途半端なものではない」というハーバートリードの銘が掲げられていたな。良く覚えているよ。思えばこの頃から既に「私を取り巻く世界」は私に語りかけていたんだ。いきなり恩師に認められた私の処女作だったが、あれはマリア様だったに違いないよ。そのお告げがこの12年後にある(後述)。そしてこの後間もなく私が自宅でも描き始めた<アルタミラ>に「夜明け前」という作品が現れた。不思議だ、あまりにも出来過ぎているではないか。まるで「霊的曙光の奇跡」を予期しているかのような絵だったよ。 
 
しかしこの「夜明け前」も「揺り椅子の女」も今はもう観ることが出来ない。この頃の作品は全て破棄してしまった。唯一難を逃れた「揺り椅子の女」も譲渡先で多分・・・。もう見る事はないだろう、実に残念だよ。私の中のアポロドロスが写真の原理を発見したんだ。石膏デッサンというものを学び始めた。「そうか、絵と言うものはこうやって描くものだったんだ」と思うと、それまでやっていたことに何の価値も見い出せなくなってしまったんだ。こうして<アルタミラ>は一度アポロドロスによって破壊されている。画業を志して間もなく私個人に起こった大事件だったのだが・・・ここ大事、話飛びます。<人類史に起こった事が「私」の個人史に繰り返し、「私」の個人史に起こった事が人類史に繰り返されている。>1978年には、はっきりそれを自覚していたよ。『龍法聖画論』(Talk-20)の1ページ目の年表にそれが表れています。いずれ詳細をTalk-20で語ります。考え過ぎ?いいえ、あなたが鈍感なだけです。よろしいか?ここで言う「私」とはあなたの事でもあるのですよ(Talk-59)・・・後略。
 
前略・・・そういう訳で今2021年と1978年の間には断絶がある。繋がらないんだ。私たちは「霊的曙光の奇跡」によって霊的に生まれ変わっています。『龍法聖画論-1978年』に予測した通りだよ。どの様な霊性からどのような霊性に転生しているか、については既にTalk-45で述べており本稿でもそれを(7)に引用しています。そこで今回はこれまでの文脈に沿ってまた別の言い方をしてみましょう。こうです☞ <今私たちは、「世間」に対峙してその「物・観念」に執着して来た過去2500年来の霊性から、「世間」にまつわる「物・観念」に捉われない霊性に生まれ変わっています。このアルタミラ的に回帰した霊性に於いては、「世間」というもそれは私たちの諸々の生命活動を引き出すために在る「触媒としての方便」に過ぎないんだ。(Talk-68)思い返せば、そもそも「世間」は「虚仮」であり<我>の投影である幻想でしかなかったのでありますし、敵も味方も好きも嫌いも関係ない。全ては愛すべき自分自身であったという訳ですからね。私たちは間違ってもこの先、これまでのように「世間」の「物・観念」つまり煩悩を対象化し目的化しながら、自己崩壊の末路を辿る様な愚行はもう二度と繰り返しません。>
 
これまで「世間」の「物・観念」つまり煩悩を対象化し目的化して来た結果が自然破壊による<地球生命>の疲弊に繋がっていると考えます。これは2500年前に起こった<科学という宗教>(Talk-45)にその原因があります。短絡的に誤解しない!別に<科学(という宗教)>が悪いと言う事ではない。科学こそは信じる必要の無い唯一誠の宗教であります。アルタミラ的に転生した霊性の下で、科学も「この先は方便として生かされる本来の道が開けて来ます」と説いております。(Talk-45)。
 
この新しくて古いアルタミラ的精神文化に於いてはタブロー形式の表現が新たな装いをもって芸術として蘇生します。「画家と世界と技術の三位一体、辺り一面浄化され・・・。」50年前にこの光景に見とれていたあの高校生も含めて全ての関係性は透明です。「・・・透け透けなんよね!」→ p9 とはこの事です。ここに李禹煥先生は「新しい芸術の始まり」を夢見ておられたのではありませんか?芸術的に蘇生した絵画表現がその基軸を支えます。先生!いかがですか?
 
アポロドロスは「古代ギリシアの画家。前5世紀後半アテネで活躍。プリニウスによると,従来の線的描写を改革し,色彩の混合による陰影描法を展開,ギリシア絵画の発展にきわめて重要な貢献をした」(ネット コトバンク)と紹介されています。が、これは改革なんてもんじゃないし発展でもない。明らかにその前後に決して繋がらない異文化の断絶があるんだ。これが見えませんか?その文化を支えている人間の<霊性>が違う。線画に陰影つけてみようなんてのは<技術芸術的絵画表現>とは全く別次元の発想だよ。嗚呼!しかしその時はその必要があったのですよ。今回「日の本」に起こった霊性の転換と真逆の奇跡が古代ギリシャに起こっています。これもまた神の御業、全てはみこころ天命自然。実に大発見だったんだ!当時の私は喜び勇んで毎日石膏デッサンに励んだもんだよ。2500年前の話です。
 
「霊的曙光の奇跡」によって絵画表現は芸術的に蘇生し世界は救われる。と『龍法聖画論‐1978年』で予言しています。言い過ぎた!予測した程度のことです、大確信を持ってね。結局予言だな(笑)。あれはやはり啓示であったと思う。2年間のメモを整理しただけでは「霊的曙光の奇跡」という考えには行き着かないんだ。最後の一押しがあったと思うよ。自分以外の力が働いていた。ついこの間Camel Kで授かった「2500年目のメルカトル」と同じだよ。ここで種明かしをしておこう。本稿(1)の「世界を包み込んで行く地図?そしてご神託?」あれは私の祈りの一念です。「祈りの中に全てがあります この事はよく覚えておいて下さい」(マリア様のご神託‐1983年)最後は、たまたまあの口調になった。別に神様が現れてお告げを垂れて行かれたわけじゃない。誰もそんなことは言ってない。誤解無きようお願いしますね。あたかも神様が私にご神託を下されたかのように見せかけただけです。そういうの好きだから(笑)。でも実際あの言葉は私の言葉であると同時に私の言葉ではないかもしれないんだ。なんで今頃になって弥勒菩薩なんだ!?私は弥勒菩薩を知らない。名前を聞いたことはあるが、この齢になるまで考えた事も語った事もない。おまけにあの語り口。まるで出口なお(大本教教祖)に語り掛けた丑寅の金神様みたいじゃないか。そう言えば大本教はミロク信仰とも関係あったか?興味はあるが・・・中略・・・いつだったか似た様な事が前にもあった。全然関係ないと思っていたものが突然現れて、しかし結構重要な意味をその後の自分にもたらすというパターンだ。聖徳太子が突然私の書き物に現れた。1984年頃だったか?いずれTalk-32で紹介します。太子については基本Talk-45で触れているがTalk-75の英語バージョンが面白い。日本語では書かなかった珍事についても触れている。が、まあそれはともかく話もとい!この段落の最初だよ。『龍法聖画論-1978年』の予言の件だが。その後が酷かったよ。若かったから耐えられたものの、今ならその受難の途中で死んでるね。予想に反して私は1983年には地獄のどん底まで突き落とされる事になった。一家を巻き込んだ交通事故だよ。全く一介の絵描き風情が大それて予言などするもんじゃないね。私の性格や態度がこんなだからどこか聖なるものに対する不敬があったのかもしれない、罰が当たったのかも知れないと思ったよ。でも最後にマリア様が現れなさって救いのご神託を下された。翌年には守護神様、守護霊様、過去世(様?笑)が総出で現れて励ましてくださった。全てTalk45にある通り。歴代坂本家を呪い続けて来た悪霊までもが現れたんだぞ!しかしそれさえもが私に力添えしてくれるためだったんだ。全ては歩むべき道だったのだなあ、と思われたよ。Talk-4にはこの悪霊の肖像画があるよ。悪い奴じゃないんだ。1985年3月23日の作品です。交通事故の後、退院して2年後にまだ癒えぬ体の無理を押して描いた最初の絵だった。最初?実はその1年前に非具象があるのだが・・・いずれTalk⁻32でまとめて紹介するよ。今は説明するのが面倒臭い。説明がまたあらぬ誤解を生むかも知れん。とにかくおどろおどろしい感じでは読まないでもらいたい。そうさせようと半分いたずら心で演出してるんだけど本当にそんな気持ちになってもらうと困るんだ。オッチョコチョイはするけど本意ではない。根は真面目。すべて「驚異の10円手相師さん」のおっしゃった通りだよ。ところでこの桂山は今回キーパーソンとして働いている(p4,p25)・・・中略・・・それよりH氏だよ。私の過去に義淵がいるとおっしゃったたいへんなサイキックだよ。守護神のニギハヤヒノミコトや守護霊の恭任様のお言葉も伝えてくれた。これも種を明かせばその時に3万円出して観てもらっただけです。あなただって手相やおみくじにお金払った事あるでしょう?で、そのおみくじや手相鑑定の類をお告げだとかご神託だとか言ってそれらしく演出しながら物語風に自身の人生を語ってごらんなさいよ。まさしくそれを今私がやらかしていると言うだけの話さ。マリア様のご神託(Talk-4)。これは私の後輩の故・Y君が聞いて語ったものを私が書き留めたものだよ。別におかしくもなんともない。彼も又、優れたサイキックでした。1983年1984年のこうした数々のお告げの中に「あなたの絵の中に私が現れます」というマリア様のお告げがあった。守護霊恭任様の「汝はあと少しで神との接点を見出すであろう」という予言があった。「鏡より他に我が身を写すなる宝はあらず道に目覚めて」という過去世義淵の句もあった。そしてこうしたお告げ通り、1985年11月3日、日の本の文化の日に「善光寺如来御書箱を開けて驚く黒い手の女神」を描いてついに「霊的曙光の奇跡」が始まった事を知らされる。(Talk-45)これが救世観音即ち聖徳太子が動いた日の<アルタミラ>だよ。この14年前に授業で描いた私の処女作「揺り椅子の女」の再来さ。『曙光』(Talk-32)には「運命的回帰による一種の到達」と書いた。さて、いかがですか?ここで一気に語った事は全てホームページの“Gallery Talk”に発表済みです。どうぞご覧ください。「?嘘だろ!」って思いながらね(笑)。
 
・・・。あと私が幼い頃、母(私が松山に戻った2014年の7月9日に他界)から何かにつけて良く聞かされたおとぎ話がある。それといつだったか・・・母の母、既に亡くなっておられた私のおばあちゃんが母の夢枕に立って語ったと言う私に関する話がある。今はまだ話せないのだが、私があの世に戻る前には全部明らかにするよ。50年前に頂いた「郷里松山のI師こと石崎馨・師」の予言の最後のくだりもね。その予言の前半は『曙光-1990』(Talk-32)で既に明かしている。そうだ!おばあちゃんとは1973年に一度こっくりさんでお会いした。しかしそのとき持っていたお守りから出ていらした方にこっくりさんをしてはいけないと注意されて以来怖くてやっていない。話題に取り上げるのもはばかられる。素人が面白半分にチャネリング等に関わってはならない!絶対に!!!この方だと思うよ。1984年にH氏を通してお会いした守護霊の恭任様は。「13才より守るなり」とおっしゃった方だよ。この話はもう既に英文でTalk-54にもっと分かり易く紹介しているよ。
 
絵の話に戻ろう。「霊的曙光の奇跡」で私たちの霊性が転換されると美術芸術の分野ではここに<Tableau>と言う表現形式が装いを新たに芸術として復活します。1990年に東京で開いた「個展DESSINER考」のパンフレットに “Tableau is now coming back to life again with our miracle of Allore spirituelle” と書きました。(Talk-30,31,32)これが「霊的曙光の奇跡に基づく絵画表現の芸術的蘇生」の英訳です。
 
「霊的曙光の奇跡」が始まって間もなく『曙光-1990年』(Talk-32)にはこう言う事も書いた。「今や、オールオーバーに拡散した崩壊相の宇宙も、神聖琵琶湖に生じる霊的磁界の磁力線に沿って、求心的な構図のもとに再構成されようとしているのだ。」と。そして今、私の周辺では再構成された新たな美術芸術世界の雛形が完成しています。→ p8(5)
 
画家にとって「世間」というものは画家の<技術>を引き出すために在る“触媒としての方便”に過ぎないんだ。パレットなるもの筆なるものを法具がごときに携えた画家はもはやその「世間」にまつわる「物・観念」に執着してはおりません。一方であなたがこの画家の作品を観る時もまた画面上の「物・観念」に拘泥してはいない。その時そこに何が描かれているかはもはや問題ではなくなっております。しかし、だからと言って最初から物を見なくて良い、物を描かなくても良かった、と言う事ではないんだ。嗚呼、何と言う・・・これが神業と言うものなのか。芸術家と呼ばれる行者たちの祈りの痕跡である「壁に掛けて展示される枠取りされた四角い<作品>」にあなたがどこまでも主観的に奥深く見入って行き、画家の魂に感応する。と言うこの精神的に極めて高度な生命活動が芸術文化として成仏するためには「世間」と言う“触媒としての方便”が必要だったんだ。そこににまつわる「物・観念」という煩悩が契機として不可欠だったのだよ。経に曰く煩悩即菩提/生死即涅槃と、また「DESSINER考」には原罪即仏果とも。・・・しかしここには一つ条件があった。これまで「世間」が都合よく“触媒としての方便”でいてくれた訳ではなかったからね。だから「一方では方便を方便として見抜くだけの霊性が人に要求されている」と言ったんだ。(「DESSINER考-1990」Talk-30,31)そしてこの願いは「霊的曙光の奇跡」によって既に叶えられおります。これで「私も絵画も人類もみな救われます」(Talk-45の10)。これ即ち大乗の極意なり、至高の芸術論いやさ芸道論!人類文化至極の“Treasure”(宝Talk‐75)なのであります。          
 
 

とうがらし 2021年7月 部分 20×105×3cm
 
 
 
(9)
 

山茶花のメルカトル-地図 2021年9月 105×75cm
 
Talk-68では私が次第に次元を超えて行き、ついには40年前の<我>の断面図と相対峙することになるのだが、その直前にこの世の「神秘が理法」について色々と思いを巡らす場面があるだろう?再びお手持ちの『MERCATOR』p11(Talk-68)をご覧いただきたい。「遠心性と求心性の同時的存在の妙」は中村彝(つね)の「エロシェンコ氏像」に現れている。1973年に初めてこの作品を見た時にそう思った。例の日動画廊だよ。「大円を描くようにおおらかに腕を動かしつつそれを繰り返しながら、そのタッチを生かして次第にそこに物を書き表してゆく。こういう描き方をした場合、しばしば出来上がりは描き始めに比べて幾分萎縮がちになる。委縮というよりもこの際凝縮と言うべきだろう。あたかもこの大宇宙の成り立ちを見る思いである(『龍法聖画論』メモ‐1978年)」。次に、「原子一個の拡大図がこの大宇宙を想起せしめる」と思ったのは中一で13才になる年の事だよ。付属中学校の第一理科室で初めてそれを遠目に見た時、太陽系か何か宇宙の縮小模型かと思った。近づいて説明書きを覗いて見ると、原子とか言う目に見えない小さなものの拡大模型だと書いてあった。感激したよ。その12年後、『龍法聖画論』にこう書いた。「近くにありては筆法気韻、遠くにありては幽玄これなり」と。これが<我>の実相か?国宝「松林図」(長谷川等伯)に現れています。郷里松山のI師こと石崎馨・師(Talk-15)からは「琵琶湖は地球のへそである」と教わった。おそらくこれは大本教・出口王仁三郎の日本雛形説に由来したものに違いない。日の本極東の地形が世界地図の縮図になっているという説法で後に私が『曙光‐1990年』で「琵琶湖とカスピ海を霊軸で重ね通した日本と世界の同心円的相似関係」と書いたやつだよ。ネットで分かり易いサイトがいくつかあったので参照して見て下さい。注意!通俗に流されないように。私がしばしば感極まって「同心円云々」を決め台詞にしているのはこういう事を言ってるのさ。形だけじゃないよ。50年前の洋画日本画的絵画世界と時の<現代美術>との関係はフェノロサが日本に招聘された頃の日本画と油絵の関係にリンクした同心円だよ。これは曙光-1990のあとがきでも触れた。もっと言う。あなたの一生この一年、この一日この一時間の間にも、いやつい今しがたの刹那にさえも、2500年に及ぶ大世界史の一切全てが色を変え形を変えて大に小に繰り返されているよ。・・・全く妄想癖は今も昔も少しも変わっちゃいないな。でもかつてのように一人暗く閉ざされたものにはならない。今ではご教祖様的絶対孤立の境地だよ。絵描き冥利につきるね(笑)。中学時代はこうした事をまだ語ることも無かったし、両親や学校の先生方、守護霊恭任様たちが守りかわいがってくれていた。懐かしく楽しい思い出しかないよ。でも腰の手術を境に始まった1年遅れの高校生活は何かにつけて孤立し、暗く閉ざされて行った。色々問題を抱えて本当に毎日が辛かったよ。もし油絵の授業との出会いがなければそこで自分は終わっていたと、?!そんなにおかしいですか?聞くに堪えない自愛の三文私小説・傲慢・嘘つき・一人思い込み・支離滅裂・絵描き風情の世迷言・・・。・・・そうですか、何とでも。「狂わざれば生ける屍!」(桂山)桂山もまた<誠の真実>に行じていたのでありましょう。「みなうそよしゃかもこうしもきりすとも」まこと日の本全土の地蔵菩薩筆頭にふさわしい。この度は取りまとめをお願いしました。ともあれこれで「霊的曙光の奇跡に基づく絵画表現の芸術的蘇生」即ち「DESSINER考」(Talk-30)の悲願はついに世界成就の緒に就いた。私の、今生のこの本懐も、おおもとにその位相を尋ぬれば「具象的非具象の洗礼」にひたと重なりておりまする。これ即ち同心円、位相を変えつつ無限に広がるメルカトル(Talk-68)。このあとは早いよ。
 
もうお気づきか?歴史は今50年前の私を繰り返しております。【一条の光明】は実にここ「日の本一の祠なる神聖キャメルK」から放たれていたのだよ。そしてこの度は “the Rising Sun of the FAR EASTとして閻浮提を照らします(Talk-75「冊子MERCATOR」に英文で収録)”。・・・かつて救われし者の<誠の恩返し>として。 
 
これがこの地図の由来であり私がキャメルKで個展を開いたことの神意であります。やはり2500年前から定められておりました。間違いありません。11月21日 龍
 
この一念を今生に生まれ合わせた全ての人と50年前の自分の<今>に送る。一瞬の時を止めて・・・。
 
 
 
(P22,23)
 
「今日表現の芸術性はもはや演出のみに終始する通俗アートのレベルにはない。」(『曙光以後』‐1992年より)・・・



『冊子MERCATOR』の表紙はMukuge-sequence(Talk-61)の部分原寸 収録記事はTalk-68 Talk-75 他
 

たね 2021年7月 76×54×3cm
 
美術芸術の問題は如何に客観的に作品世界を見せるか,見えているかではないんだ。作るも見るも、絶対主観の出会いを求めています。
 
(p24, 25)
 
出品作品全35点より祠シリーズの小品4点 左から 24● 36● 18● 29●

※画料は<私>の活動を支えて頂く浄財として有難く頂戴いたしました。お布施であると考えております。
 
 
あとがき
 
本稿の地図は編集の都合上、多少作り直してあります。みなさんのお手元にある地図には「桂山地蔵」が記されておりません。私が最初にギャラリーの地図を作成した時はまだ「驚異のこつじき10円手相師さん」としか記憶にありませんでした。お地蔵さんはおろか、お名前すら存じ上げなかったのです。私は1976年の夏だったか、帰省した折に一度観て頂いておりますが、師は私が観てもらったその年に亡くなっておられます。当時は松山に知らぬ者がいない大変有名な方でした。私はこの行乞の手相師さんには深い尊敬の念をずっと抱き続けておりました。2014年に私が松山に戻ってからと言うもの、これほどの人物が戦後松山の記憶の底に埋もれ、忘れ去られようとしている事を大変悲しく悔しく思っておりました。ところが今回の個展会期中にこの手相師さんが桂山と言う名前で、そのお地蔵さんが地図上Camel Kのすぐ左手にあると言う事が分かります。そして近年には書籍も出版されていた事を知り狂喜しました。早速に取り寄せて読みました。桂山地蔵にも駆けつけた。ありました!まさしくあの「驚異のこつじき10円手相師さん」そのままのお姿であります。そしてそのお背中には、嗚呼・・・「つらかろうおれも乞食を50年」と彫られていたではありませんか。・・・著者の田中修二氏は、なんと私のアトリエ近くにお住まいでした。すぐにお訪ねし更なるお話を伺います。やはりそうであったか。松山に戻り、父(2012年3月8日に他界)の遺品整理で見つけた卒業アルバム(1953年愛媛大学文理学部)にある当時の松山市風景断片に写り込んでいた人物。それはまさしく桂山その人でありました。住居がまるで犬小屋。その中からじっとこちらを見やる乞食姿の・・・もしかして、と気にはなっておりましたがこの日ついにその確認が取れました。この時ばかりは私を見やる桂山も幾分微笑んでいるかの様でした。
 
桂山は私に「2500年のメルカトル」を知らしめ「Talk-77 地図」を書かせるために私を「神聖Camel K」に呼び寄せた
 
今私は本気でこの神話を信じております。神話と言うものにこそは抜き差しならない真実が横たわっている。この<誠の真実>を紐解きながら生くべき道筋を探って行くと云う事。これが「具象的非具象」の画家の歩むべき道と心得ます。45年前のあの日、ロープウェイ通りの坂のふもとで人生にたった一度きり、僅か10円の見料と3分足らずのお話しの中で行乞の禅僧桂山にはそのような“画家の心得”を説いて頂きました。桂山、あなたにこの「Talk-77地図」を捧げます。どうぞこの思い出深く美しい松山を今後とも末永くお見護り下さい。2021年11月18日 画家 坂本龍彦
  
 

母の育てた庭木 F6画用紙にスケッチペン 2017年3月

© 2022 EDEL CO.,LTD. All Rights Reserved.